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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1992年09月03日

 第一に、社会的な問題、あるいは経済的な問題そのものの量や切実さが、日本の場合相対的に少ないと言えると思うのです(あくまでもヨーロッパの国と比較してですよ!)。移民の問題にしても、内戦の問題にしても、ヨーロッパでは直接収入や治安に響く問題ですから、誰でも敏感にならざるをえない側面があるような気がします。
 第二に、ヨーロッパの階級社会ではエリートが極めて大きな責任を負いますので、その一員は絶えず多くの事柄に対して問題意識を持つ必要性があるように思われます。これはフランスよりもイギリスの方が顕著ではないかと想像しております。
 第三に、特にフランス人は喋るために生きている民族ですから(笑)、特に内容がなくてもだらだらと話し続けるテクニックに長けているような気がします(あくまで私の印象ですよ!これは)。実際、会話に「間」が入ることをよしとしない連中ですから。従って、あるテーマで彼らが活発に議論したとしても、本当に内容があるか否かははなはだ疑問です。
 結局何が言いたいかというと、どうもフランス人などは何かポンをテーマを与えられたとき、それについてのべつまくなしに話し続ける習慣なり必然性が、日本人より濃厚なのではないかと思うわけです。もともと問題意識は本人が自覚しなければ致し方ない問題で、そういう意識を抱く必然性が薄いと、問題意識が希薄でも仕方ない側面があるような気がするのです。
 まあ、いつまでもそんな状態が続くかどうかは疑問の余地がありますが。


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