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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1992年10月07日

 私はカミュの「異邦人」を読んだ時、その内容もさることながら、格調高い文章にえらく感激しました。「Quand la sonnerie est encore retenti...」何て一節はどれほど興奮したか知れません。この一冊の感動がフランス語の泥沼に誘いこんだと言って良いでしょう。
 日本語でも格調高い文章は当然あるのでしょうが、私はむしろ古文のあいまいな表現の方により多くのエクスタシーを感じてしまうのです。まあ、古事記まで遡ると「ん?」ですが、源氏物語や徒然草などに接した時は、やはり文章の品格に感動しました。
 日本語そのものがあいまいなわけではないし(日本語自体があいまいであれば、日本語で数学の論文は書けません)、日本ではなかなかはっきり言う時と場所がないというのもその通りだと思います。それに加えて、何か日本語にはあいまいにすることで格調高さが生じる要素がある、というのは少々手前勝手な感想でしょうか? 無論、あいまいな表現が全て格調高い訳でないのは言うまでもありません。フランス語の場合は、歯切れの良さとリズム、構造など、音にしたときの美しさが格調の源泉ではないかと勝手に想像しています。


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