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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年01月03日

 ふっと思い至って、夕方モンマルトルまで行ってみた。今日はこの冬一番のとやらで、最高気温がマイナス3度、最低気温が同8度である由、ほぼ札幌並みであらうか。道は部分的に凍結していた。
 サクレクール寺院に着いたのはちょうど日没時であった。パリの街はすっかり薄もやで覆われていた。朝一番の中央本線で勝沼トンネルを抜けた後の、甲府盆地のやうな雰囲気であった。遠くのモンパルナスタワーやエッフェル塔が、まるで立ち枯れした木が沼に付き刺さっているやうな風情であった。赤黒い太陽はちょうどエッフェル塔の右脇に沈もうとしていた。この界隈に溢れている米国人観光客が盛んに「beautiful!」を連発していた。
 寺院の左側からモンマルトル広場に向かった。半月がドームの上に姿を現していた。今日はさすがに日本人旅行者は少なく、米国人以外にはドイツ人の姿が目立っていた。私が「今日は埼玉国民が多いやうだね」と言ふと、ドイツ贔屓のカミさんは嫌そうな顔をしていた。(注:ある人曰く、「ドイツはヨーロッパの埼玉だ」)
 日がくれると相当寒さがこたえてくる。早々に丘を下ることにした。ピガール広場に出た頃にはすでにたそがれ時も終わり、すっかり夜の空となっていた。ただ、さすがにピガール界隈はまさに「パリの歌舞伎町」と言われるだけの賑わいで、アベックが連れ立ってセックスショップに入って行く光景など、いかにもパリらしさがこもっていた。男女数人のグループが「Peep Show 」の看板がかかるストリップ劇場に入って行く所なども、何らいやらしさがなかった。
 ムーランルージュからトリニティ教会に下った。実は一本並行して走る道は例の女性達が商売されている所である。今日は寒かったので、そちらの方に迂回せず、まっすぐギャラリー・ラファイエットに向かった。松坂屋の看板の手前で、路上、お札を財布にしまっている東洋人女性のグループがいた。数瞬後、耳に入ってきた彼女達の会話はやはり日本語であった。こういう事は危険だから絶対に注意すべきである。尤もかやうな人々がいないと、泥棒も商売上がったりであらう。


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