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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年04月19日

 フランス人に「平和」とは?と尋ねれば、自分達の生活を平穏な状態に保つこと、という応えが変えってくるでしょう。これは他の国の人間でも多分同じでありましょうから、「平和」という概念自体は普遍的なものだと思うのです。ただ、「世界平和」などというと、それをどう実現し、管理運営するかという方法論の問題が絡んできますので、その背後に植民地主義の断片を見出すことは可能かもしれません。
 フランス人にとって「平和」は闘って勝ち取るものであり、勝ち取って得た「平和」は闘ってでも守らねばならないものなのだそうです。その意味で、平和と闘いは対になっていると言っても良いでしょう。戦後数十年間に亘ってひたすら自国の繁栄に専念できた日本は、極めて恵まれた状態にあったと言えるのでしょう。自立能力があることも事実でしょう。何しろ我々は自分達の通貨で貿易ができ、外国語を知らなくても生活ができる産業基盤を持っているのです。ヨーロッパですらこの点に危機意識を抱き、EC統合という戦略に至ったことを忘れてはならないでしょう。
 対外的に何もせずそれで問題を起こさなかったのなら、それはそれで平和を愛する行動と言ってもおかしくはないでしょう? 自分達の価値観を盲信してやたらと火種をばらまいた挙げ句、自国経済を崩壊させて世界中にとばっちりを与えている元超大国に比べれば、日本は「平和国家」のモデルの一つと言えましょう。
 自分達の理想に基づいた北欧国家の行動も、やはり「平和国家」のモデルでありましょう。ただ、これは彼らのモデルなのです。今の我々に必要な行動は、日本としてのモデルを示すことにあると言えましょう。言い換えれば、日本的な価値観の普遍化が求められているはずなのです。世間一般では「国際化」と言えば「外国を知ること」ですが、これは一面に過ぎないはずです。日本の国際化と言ったら、日本的価値観の普遍化が伴っていなければ不完全なはずなのです。我々がしなければならないこと、それは漠然と表現するならば日本的価値観を明確に認識し、普遍化できる部分を普遍化することだといえましょう。今日世界常識と言われている「自由貿易」が、元々はアングロサクソンの世界観であることを忘れてはなりません。
 まあ、十代の少年少女に国の問題を尋ねても、私メはあまり多くの内容は期待できないと思うのです。ヨーロッパの20歳前後の連中は尤もらしく「演説」しますが、現状認識の足りなさは如何ともしがたいように思うのです。中には立派な活動をされている人もいるのでしょうが、平均的に見て皮相的と言って構わないでしょう。かく言う私メもまだ小僧っ子でございますが。


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