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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年07月28日

 以前は私も日本語、というか表意文字を用いる母語のコミュニケーションでは視覚依存の度合いが強いと考えておりました。しかし、いろいろと調べてみると、事は単に表意文字だから、というだけで済ませられないようです。
「日本語学」1990年11月号掲載の「文字の型と読みの速さ」(山田尚勇)では、要は馴れの問題であって認識のスピードと文字型は無関係であると論証しています。無論これが真理であるとは限りませんが、ローマ字でも文字列を一つのパターンとして認識しているとの分析は説得力があると思うのです。つまり、漢字では一つの文字をパターンとして捉えるのに対し、英語等では単語という文字列をパターンとして捉えるわけですね。
 もう一つ、認知学の研究によると人間の情報処理は3つの記憶から構成され、一番「手前」に位置する層を「感覚記憶」と呼んでいるそうです。ここでは目や耳等の感覚器官から得た信号をバッファするわけですが、例えば私のこの文を読む時、多分頭の中で音読するわけですよね?ここから、感覚記憶では文字よりも「音」の方がより大きなウェイトを占めていると想像できます。反対に、速読の場合は視覚情報だけで認識しようとするのでしょう。
 結局問題となるのは、認識の過程で表音文字の文字列(=単語)と表意文字の一字一字を全く同型対応するものと考えられるか否かです。もし同型であれば、すなわち我々が「無意識のうちに漢字を連想している」ように彼らも「無意識のうちにスペルを連想している」のであれば、両者に違いはないと考えられます。でも、我々だって会話の場面で「漢字を連想する」のは、「音」だけでは納得いかなくて「意識的」に情報を検索する場合だけではない?
 文字はあくまで視覚的表現ですから、同音異義語が多いのは会話において本来「不便」なはずですね。それに中国語の豊富な音を考えると、表意文字と夥しい同音異義語の存在を関連づけるのは不自然のような気がする。どうもこのあたりは日本語の場合、所謂文化の均質性、すなわちコミュニケーションにおける認識の共有がポイントだと思うのです。また、「目をつぶって云々」という行為は、非言語コミュニケーションの表現手段ないしは比率の違いかな、などと漠然に考えていますが、これは単なる思い付きにすぎません。これに関してはまた後日思うところをアップします。
 ところでその伝言ゲームはフランス語ですよね?だとすると、単に「音」での記憶に自信が持てないから「視覚的記憶」の助けを借りようとした所産ではないかとも思うのですよ。耳から入る膨大な情報をストックするためにはどうしても視覚情報の助けが必要になるとか。果してこれが音の貧弱な日本語を母語とする我々固有の問題か、あるいは異質な音の外国語を学ぶ者に共通して見られる現象なのかに興味があるところです。


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