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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1993年08月26日

 スイス滞在の最終日、ベルン出発が午後5時頃だったので、ローマ時代の遺跡巡りをした。
 場所はベルンから車で30分ほどのところ、フランス語圏に属するMortelとかいう所であった。は夏の暑い日差しを浴びながら、まず丘の上に残る円形競技場を訪れた。石の座席は既に4分の1ほどしか残っていなかったが、中央の楕円の競技場は残され、横会いにある競技者入場のアーチも残され、かろうじて古の面影が忍ばれた。残念なことに、競技場内部が夏祭りのビーチバレー・コートと化していたため、かつてキリスト教徒がライオンの餌食となった空間を見いだすことはできなかった。
 由利さんがかつて訪れた時は、当然ながらビーチバレーの砂利はなかった。彼女は元役者ゆえ、音響効果に興味があったそうだ。以前訪れた際、ピルミンを観客席の一番上に座らせ、「普通の」声で歌ったところちゃんと通ったという。元役者の普通の声であるから当然ある程度差し引いて考えねばならないが、それでもかなり声が響き渡るのは事実であった。
 そんな話をしていたら、突然義兄が歌い始めた。1世紀後半に作られた遺跡の中で、妙に甲高い声の「東京音頭」が響き渡った。
 円形競技場の後は、すぐ横に建つ小さな城に向かった。生憎と昼休みの閉館時間だったので、中を眺めるわけにはいかなかった。
 丘の上からながめると、遥か彼方に城壁の痕跡と城門の跡が見えた。周囲はいくばくかの民家と畑である。丘の下の畑の中にも小さな競技場と神殿の跡が残っている。畑の中には遺跡の破片が点在している。ピルミンの話だと、1メートルも掘れば石像の首が出てくるそうだ。周囲の環境と言い、私は思わず明日香村を思いだしてしまった。
 神殿跡はまさに痕跡といってよい。土台の一部と僅かに主柱が一本と、小さな支柱が一本残っていたにすぎない。しかし、復元図を見ると、かつてここがほぼ40メートル四方に及ぶ、広大な神殿であったことが示されている。遠くから見ると、一本だけ残った主柱はそれほど高いものには見えなかった。しかし、身の丈6尺を越えるピルミンが柱の横に立って、その規模を始めて実感した。高さ凡そ9ピルミン、即ち16メートルはあったものと思われる。
 遺跡をさる5分ほど、畑に散っている遺跡の破片を拾った。レンガのかけらのようなものに過ぎないが、1800年経た後の遺物であっても、人工物の面影を留めていた。


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