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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
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■ 1994年05月 アーカイブ

1994年05月25日

 『日本語学 1990.11』(明治書院)のなかに、

 文字の型と読みの速さ(山田尚勇)
 外国人の漢字学習の認知心理学的諸問題(海保博之)

 という論文が掲載されています。これは要チェック。


1994年05月24日

 職をたずねられて、かたや「職種」でこたえ、かたや「社名」でこたえる——これは、フランスでは「資格」を、日本では「所属社会」をこたえるという行動になりますね。
 おたがいに、関係をむすぶための共通性・関連性を確認するという点では、まったく同じ行動ということになります。日本ではスーパー人格である所属社会相互の関係が、個人の関係に射影される傾向があるそうですから。
「わたし、エンジニア、あなたもエンジニア、をを、一緒でんな!」というよりも、「わたし、ルノーの社員、あなたホンダの社員、をを、お互いライバルですなあ、まあ、よろしゅう、わっはっは」ということでんな。
 フランスの場合、「職種」と「所属社会」とたずねることは、まったく別の意味あいがある。前者の場合は人間関係形成という目的があるけど、後者の場合、契約関係を結ぶ場合の信用照会という側面がある。たとえば、アパルトマンの契約をするときなどは、自分のはたらく会社を明かすことで「信用」をえるということが可能になります。


 教室に試験問題が残っていたので、その一部をご紹介:

Universite de Paris I Pantheon-Sorbonne
Maitrise d'Econometrie et Magistere d'Economie
Cours de Microeconomie et Calcul Economique-Annee 1993-1994

Interrogation
 Exercice 1

 Une entreprise publique de telecommunications en situation de monopole sert deux categories d'usagers. Les fonctions de demande de chaque categorie s'ecrivent :
   Y1 = 3/2 - p
   Y2 = 1 - p
 ou p represente le prix unitaire des communications telephoniques et Y1, Y2 designent le nombre de communications de chaque categorie. La fonction de cout total s'ecrit :

   CT(Y) = 1/4 y + 3/8
 ou Y = Y1 + Y2 represente le nombre total de communications.

1) a) Determinez en fonction de p :
    le surplus total de chaque categorie d'usagers
    le profit de l'entreprise
    le surplus collectif.
  b) Comment varie le surplus collectif avec p?
  c) Calculez le surplus de chaque categorie d'usagers ainsi que le profit de l'entreprise lorsque le prix des communications est choisi de maniere a maximiser le surplus collectif.
(以下省略)

 Maitriseの試験だから、経済学部4年生が対象ですね。


1994年05月22日

 フランスの大学やGEだと、試験結果はあまねく公開されてしまいますね。誰が何点とったかっていうのが、ぜーんぶつつぬけになってしまう。これ、ぼくは最初戸惑ったけど、ようするに点数評価と人格評価は全く別なのだ、ということだとわかりました。点数がわるけりゃ、原因をつきとめて改善すればいい——フランスではこれだけのことなんですよね、きっと。
 フランスの教育観には、良くも悪くも「階層」の意識が徹底しているように思います。この点、日本のほうがある意味で民主的とさえいえる。まさに「王侯将相いずくんぞ種あらんや」が徹底されているのですから。
 HEC や ESSECなどの経済・商科系グランゼコールは、たいていが商工会議所の設立ですね。授業料は日本の私立大学並みで、だいたい年額6万フランです。学生たちのなかには銀行ローンを組んで、授業料を支払っています。L'Etudiant が発表する初年収Hit Parade(これがフランスの大学・GEランキング)によると、昨年ははじめて ESSECがトップになったそうです。それまでは常に HECが No.1 でした。


 フランスの「エリート層」はとてつもないプレッシャーがかかる。だから、好きこのんでエリートになろう、というひとが、必ずしもメジャーではないように思う。昔のことだけど、アポを取ろうと思ったら、土曜の朝八時からならあいている、と言われてたまげたことがあった。でもなんちゅうか、「難しいことはどこかにお任せして」なる層ががんとして存在することが、いまのECの状況を招いているなあ、という気もする江下であった。
 日本の場合、これは相続税が「上流階級」を消滅させたとも思うのだ。なにしろ、ヨーロッパの上流のシンボルったら、「働かない」ことでしょう? 「働かない」かわりに、文化なんかに貢献する。ブランド店なんかは昔こそ「眉しかめ」だったらしいけど、いまはどこも日本人の「殺到」で経営が成り立っているんですよね。ぼくの場合、「殺到」に加わりたいけど、先立つものがない。(;_;)


 ENA をただのエリート学校と思ってはいけない。フランスでは「ENA 出身者が失業するときは、フランスが滅びるときだ」といわれているくらい。
 一般にグランゼコールの中でも、とくに格が高いところを「トップ6」といいます。ENA、ポリテクニク、ノルマル、HEC、あと2つどこだったかな。なかでも ENAとポリテクニクは別格中の別格です。フランスの指導的政治家・高級官僚は、ほとんどが ENA出身者ですね。ミッテラン、バラデュール、シラク、デスタン、ロカール……。かつてのクレッソン、ベレゴボワは非常に希な非 ENA出身首相でした。実際、バラデュール政権になったとき、「総理の座が ENA出身者に戻った」と言われたくらい。
 ENA の入試を受けるためには、たしかグランゼコールか大学院の卒業資格が必要だったと思います。ESSEC の中にも、ENA 入試対策コースというカリキュラムがありました。
 ポリテクニクと ENAの両方を出ていると、フランスでは「究極のエリート」といわれるそうです。


1994年05月21日

 きのう、F2の報道特集で、
 Qu'est-ce que c'est, OTAKU?
 というルポルタージュがありました。
 コミケの模様まで登場するなど、かなり本格的な取材を重ねたようです。


1994年05月18日

 困った。
 なにしろ困った。
 このままでは、3万フランのキャッシュを「お持ち帰り」になりそうだ。しかも、口座がないと、日本からの送金にも困る。
 なんて交渉したらいいんだろう。
 と、ディレクター——前回の「おっさん」はお偉いさんだったのだ——の方からはなしかけてきた。
「うちで口座を開けなくても、トーキョー銀行ならできるんじゃないの?」
 たしかに。
「ええ、でも、学校がここの近くだから……」
 このひとこと、ディレクターにちょっとしたインパクトを与えたようだ。
「学校?
 大学?」
「大学っていうか、ESSEC ですけど……」
 おっさんの態度が手のひらを返した。
「なんだ、ESSEC の学生なのか。じゃあ、口座を開けるよ」
 ええ?
 だって、まだ滞在許可を持っていないのに……。
「担当は……えっと、メレ君だったね?
 きみ、案内してさしあげて」
 こっちがきょとんとしているあいだに、手近の行員に支持していた。
「あのお、口座を開ける……?」
「当然さ。今後ともよろしくお願いしますよ」
 握手までされてしまった。
 あとからわかったことだが、フランスでは銀行口座を持つこと自体が、ひとつの社会的信用なのだ。だから、口座開設を断られたり、開設できてもいろいろな制約を設けられることが少なくない。
 大学キャンパス近くの大銀行の支店だと、たいていは、そこの学生専用の担当者がいるらしい。とくに ESSECのようなグランゼコールのひとつになると、専用担当者が学費ローンや財テクの相談にまで応じているのだ。
 このあたり、フランスでは客をはっきりと「区別」している。
 日本人は「金持ち」という印象を持たれているおかげで、パリ市内ならわりあい簡単に口座を持てるらしい。クレディ・リヨネのパリ中央支店には、日本人顧客の専用担当者までいるくらいだ。はじめからこのことを知っていれば、ぼくはここに送金し、口座を申し込んでいたのだが。
 ふたたび上のフロアに戻る。
 担当のメレ氏はバカンス中だった。ディレクターの指令があったのか、メレ氏の代理がぼくの口座開設事務をしてくれることになった。
 待ち行列五人をおしのけ、いきなり椅子をすすめられる。十個の冷たい視線は気にしないことにしよう。C'est pas de ma faute.である。
 銀行にやってきてから、すでに一時間は経っただろうか。
 でも、カネを回収し——現金はまだ窓口にある——、口座開設の手続きまでたどりついた。
 しかし、このときのぼくの語学力は、ほんとうにあやういものだった。なにしろ来仏まだ一週間。その以前は、ほぼ半年のブランクがあった。
 いざ事務手続きにはいっても、あいての言うことがほとんど理解できない。おまけに、申込書に書いてあるもろもろの用語もわからん。伝票の virement って単語だって、知らなかったくらいだ。
 しかもこの当時、パソコン通信で口座開設の苦労談を聞かせてくれるひともいなかった。要するに、なーんもわからん状態だった。
 さてさて、簡単に口座は開けたでしょうか。それは次回のお楽しみ。


1994年05月16日

 翌、7月2日、こんどはショッピング・センターの窓口に向かった。
 フランス名物の長蛇の列だ。メモに書かれた女性の名札を探したが、どこにも見あたらない。しょーがねーな、と思いつつ、列のひとつに並んだ。
 ひとつ注意すると、日本みたいなカウンターは、現金取り扱い窓口しかない。あとの細かい「ご相談」は、すべて行員と机をはさんで交渉する。その机の前に、行列ができるのだ。
 待つこと三十分、ようやく自分の順番がきた。
 メモを見せる。
「あ、彼女なら、下のフロアーだよ」
 あっさりひとこと。
 あんたじゃだめなの?
「これ、ぼくの担当じゃないから。……はい、次のひと」
 三十分は一瞬で消えた。
 下のフロアーに降りる。
 メモの女性はほどなく見つかった。ツボにはまったときのフランス人の仕事は早い。彼女は部下の行員にてきぱきと命令し、二十分ほどで、ぼくは3万フランを回収することができた。
 が、ここではたと考えた。
 窓口の向こうで、500フラン札の束を行員が数えている。
 いくらなんでも、そんなキャッシュの山を持って帰るのはたまらん。
 札束をいままさにわたさんとす、という体勢の行員を制した。
「あのお、そのまま口座を開いて預けられますかあ?」
 一瞬彼は、え?
 というような表情を浮かべた。
「うん、もちろん。ちょっと待っててね」
 担当者に要件を告げにいったのだろう。
 ほどなく彼はもどってきた。ずいぶんと貫禄のあるおっさんと一緒に。
 交渉は、このおっさんが引き継ぐことになった。
「ええっと、うちの支店で口座を開きたいとか?」
 いっておくが、この交渉は、窓口の行列のあいだ、たちっぱなしでおこなわれたのだ。
「はい、どうせ口座が必要だから」
「きみは外国人のようだけど、滞在身分は?」
「学生です。長期ビザも持っていますよ」
「パスポートを見せてもらえますかな」
 どうぞ、と言って、長期ビザを貼ったページを見せた。実はこの時点で、まだ滞在許可証は申請すらしていなかったのだ。
「まだ、滞在一年経っていないね」
「先週着いたばかりですから」
「ふうむ、そうなると、口座を開くわけには参りませんね」
 げげ。あのキャッシュを持ってかえらにゃならんの??
 おまけに、銀行口座なしで暮らせというのか?
 でも、たしか「地球の歩き方」には、非居住扱いで口座が開けると書いてあった……。
「でも、たしか non residentielで口座を開けるはずでしょう?」
「非居住で?
 いいや、うちでは認めていないよ」
 形勢があやうい。
 こっちにも滞在許可を持っていないという弱みがある。
 やはり3万フランはお持ち帰りテイク・アウトになってしまうのか?
 一年間、銀行口座なしで暮らさなければいけないのか?
 さてさて、おっさんとの交渉はどうなる。待たれる、次回——


1994年05月15日

「小杉さん、ちょっと停まってもらえますか」
「うん?
 いいよ。ちょっとまって……はい」
 石畳の一方通行の小径を徐行していたので、小杉さんはすぐに車を左側に寄せて停めてくれた。
 車が停まったのは、《Hotel des Remparts》という飾り文字のついた建物の前だった。

 **

 リヨンを出発するまえ、町村さんの自宅で、ボーヌのホテルのパンフレットを見せてもらった。以前、Bourgogne さんが薦めてくれたホテルのものだった。
「十室しかありませんね」
 町田さんがパンフレットを見ながらつぶやいた。
 ——十室だけ?
 こりゃだめだ。
「電話で予約したほうがいいでしょうかねえ?」
 いくらなんでも、もう満室でしょう、と、ぼくはこたえた。
 町村さんのアパルトマンを去るとき、ホテルの名前はメモしていかなかった。

 レンタカー屋のガレージから、小杉さんが車を発進させる。ルノー・クリオのせまい後部座席から、ぼくはぼんやりと外を眺めていた。ボーヌの街の外周道路から、町田さんがまえに指さした標識のところを左折した。舗装道路から、古い石畳の道に入る。
 パリ市内のまあたらしい[・・・・・・]石畳と違い、ボーヌの古い道は、かなりでこぼことした感触だった。足のふかふかした昔のアメ車だったら、すぐに気分が悪くなりそうだ。
 左折してすぐ左側は、ちょうど城の一角のような建物だった。その隣は、前庭が広く、赤や黄色など、原色の装飾がこまかく配された邸だった。車があまりスピードを出せない路面だったので、ボーヌの古い街並みをじっくり眺めることができた。
「そこ、左折ですね」
 助手席から町田さんが言った。《Information》 の標識が左折方向に向かっていた。小杉さんが、一方通行の道に車をあやつる。
 とにかくインフォメーションまで行けば、ホテルはなんとかなるだろう。
 ふっと、左の建物を眺めると、フランスではおなじみのホテルの標識が目に入った。
 ——なかなかしゃれた建物だな。
 と、思った。
 ——名前はなんだろう?

《Hotel des Remparts》

「!」
 急に思い出すものがあった。
「だめモトで部屋を聞いてみましょうか?」
 誰にも異存はなかった。
 町田さんとふたりで、部屋の交渉に行った。
 入り口はいかめしい門なんかではなく、ごく普通の、ガラス窓のドアだった。長いノブを下にひねり、内側にドアをあける。
 入り口のすぐ左には、古めかしく、つやの渋い大きなデスクが置いてあった。そこがフロントなのだろう。
 デスクには、ラテン風の美人がいた。立ち上がって、われわれふたりに微笑みかける。
 だめモトでも、来ただけの価値はあったような気がした。
「四人なんですけど、二部屋ありますか?」
「ええ、一晩ですか?」
 彼女の愛想のよい笑顔が心地よかった。
「そうです、一晩だけです」
 実にあっけなかった。いくらオフとはいえ、これほどしゃれたホテルなら、十室くらい、もううまっていると思った。しかし、彼女のくちぶりからすると、予約客はまだいないような感じだった。
「お部屋をご覧になりますか?」
「あ、お願いします」
 ちょっと待って、と町田さんにひとこと。車で待つ小杉さんとみどりに、空室があることを告げた。
「部屋がよさそうだったら、予約しちゃいますね」
「ここのホテルなら文句ないよ」
 小杉さんはすでに満足げだった。みどりにも異存なし。
 ふたたびホテルのロビーに戻る。
 町田さんと二人で、ラテン美女のあとに続いた。
 ロビーは二十帖ほどで、質素な応接せっとがデスクの向かいにあった。その隣は、朝食をとるための小スペースになっていた。
 彼女は食堂スペースのわきを抜け、そのまま中庭に向かった。わき沿いには、三色旗、星条旗、EC旗にまじって、日の丸の小旗が立っていた。その前には、観光コースのパンフレットがならぶ。
 ちいさな中庭の先に、丸い、塔のような一角がある。細かな石の敷き詰められた中庭を、彼女はその塔に向かって進んだ。
「なんだか、随分と渋い建物ですね」
 塔を見ただけで、なんだか嬉しい気持ちになってきた。町田さんも同意見だった。
「とても古い建物ですね」
 螺旋階段を先行して登る彼女に尋ねた。
「十七世紀に建ったんですよ」
「へえ、十七世紀ねえ!」
「内装は何度もかえていますけど」
「十七世紀じゃあ、まだ生まれてなかったなあ……」
「あはは……」
 われわれが案内された部屋は、フランス式の三階だった。この建物の最上階だ。
 階段をのぼりきって、右側の部屋に案内される。
 きれいなカバーのかかったベッドがならぶ。天井の斜めの角度が半分残る。部屋の右のほうから、そとの明るい光線が入っていた。
 十分なスペースが快適そうだった。空気はここちよく乾燥し、すっきりとした黒い柱が、ほこりひとつないことを証明していた。
 うん、異議なし。
 続いて向かいの部屋に向かう。
 ドアを空ける。
 急に広々とした空間が広がった。建物の中心線にあたるのだろう。逆V字型の天井が、わきの方ではかなり低くなっていた。小さな机が、片側を天井に接するかたちで置かれていた。
 たっぷり十帖はありそうな部屋だった。奥の方に、うすピンク色のカバーのかかったベッドが、前の部屋よりもだいぶ迫った位置におかれていた。
 ——小杉さんと、町田さんは、向こうの部屋のほうがいいんじゃないかな……

 どちらの部屋も文句のない雰囲気だった。
「ひとつだけ、問題があるのよ」
 ラテン美女が、妙に強調するかたちで「une chose」と言った。
 バス・ルームのドアをあけ、彼女が申し訳なさそうに言った。
 なんだ、トイレが使えないのか?
「ここ、シャワーが使えないの。バス・タブにはつかれるけど」
 ほっとひといき。
「Pas Probleme!」
 肝心な問題はほかにあった。
 ここは、三ツ星のホテルなのだ。
 パリではいまだかつて、二ツ星より上のホテルには泊まったことがない。つい前日泊まったリヨンのホテルは三ツ星だったが、週末割引で格安だった。
 観光地で三ツ星ホテルにとまるのは、だから、スリリングな経験だった。
「料金はいくらですか?」
「それぞれ380フランです」
 え?
 パリの二ツ星と同じ?
 躊躇することはなにもなくなった。
 町田さんと目頭でうなずきあう。
「じゃ、一晩お願いしますね」

われわれ二人は、ラテン美女のあとに続いてフロントにもどった。
 さあ、あとは黄金の丘めぐりだ!


1994年05月14日

 二年前のこと。
 日本から支店どめ送金した3万フランを受け取りに、セルジーまで行った。
 カネを手にするまで、ひと波乱もふた波乱あった。
 そもそもクレディ・リヨネ東京支店で送金する際、セルジーに支店が三つあった。どれが駅のちかくで、どれがショッピング・センター内かなんて、てんでわからん。
 取りあえず、適当なのに送った。
 これが序幕。
 さてさて、「6月末ころ、本人が受け取り」という条件で送金したんだけど、ぼくは7月1日にセルジーまで行った。
 住所をみても、わけわからん。
 ためしに、パリで泊まっていたホテル近く、サン・ジェルマン支店で尋ねた。
「セルジーこの支店にはどう行くの?」
 けんもほろろの扱い。
「なんでそんな支店のこと、あたしが説明しなきゃいけないのよ!」
 で、なにはともあれセルジーまで行って、駅とか通行人とかに尋ねまくり、ようやく支店までたどりついたのであった。
「サムライ・ビル」という建物だった。
 が、市街地からちょっとはずれたその建物、いわゆる銀行の雰囲気ゼロ。窓口もなければ、客の姿も見えない。客の姿どころが、建物に入るにも、インタフォンで要件を告げにゃならん。
 いくらなんでも、こりゃ、変だ。でも、3万フラン——当時のレートで75万円を回収せにゃ……。
 インタフォンで要件を告げると、親切な行員がひとり出てきた。それから、個室になっている、映画なんかでもお馴染みの事務室に案内される。
 まあ、彼は親切だった。それに、ぼくが会社の名刺を出すと、親切な態度は、一層、丁重さを増した。名刺に刷ってあった、三菱マークのおかげだった。なんでも、三菱グループがクレディ・リヨネの主要顧客なのだそうだ。
 このあたり、フランス人は顧客をはっきり「区別」する態度をとる。
 伝票を見せて、「お金ちょうだい」と言うと、彼は困ったような顔をした。
「だって、ここ、現金を扱ってないよ。なんでトーキョーは、こんなとこに個人の送金をしたんだろうねえ?」
 げげ。おれの3万フランはどーなる??
 わしゃ、ひきつった。ありったけの表現で訴えた。で、彼も親切だった。
 なにやら秘書に命じ、秘書が端末をしばしたたいていた。
 彼がにっこり。
 なんでも、ショッピング・センターの方にそのまま転送したんだそうだ。だから、そっちの窓口で引き取れる。
 ほっ……としたのも束の間で、秘書が「Attendez!」とひとこと。
 えらい早口で彼になにやら説明している。
 彼が表情を少し曇らせ、彼女の説明を繰り返してくれた。
「そのお金、きのう、トーキョーに返しちゃったんだって」
 愕然。
 その横で、彼女がふたたび端末をたたく。そして、紙になにやらメモり、今度は電話で誰かと交渉を始めた。
 一連のやりとりは1分ほどだっただろう。きっと。
 結局、彼女のすばやい対応で、前日トーキョーに帰国した3万フランは、翌日、あらためてフランスに再上陸できることになった。そして、ショッピング・センターの支店の担当者に連絡し、彼女にこのメモをみせれば、万事OKというようにしてくれたのだった。
 めでたしめでたし。
 さてさて、江下は無事3万フランを手にできたでしょうか。それは次回のおたのしみ。


1994年05月13日

 郵便局を使ってフランス在住の人に支払う方法は、

(1)銀行の口座振替と同じ方法
(2)郵便為替(Mandat)を使う方法(一種の送金小切手でっせ)

 この二つがあったと思います。ただし、日本の郵便局がフラン建てMandatを扱っているかどうかは知らない。多分、扱っていないんじゃないだろうか。
 フランスから何か直接購入する場合、支払いの方法は次の三つのどれかになるんじゃないかな。

(1)指定口座への送金(銀行または郵便局)
(2)送金小切手の郵送(フラン建て送金小切手を作成)
(3)国際クレジット・カードの利用

 方法1だと、当然ながら相手の口座番号を教えてもらい、外為取扱い銀行に行って、フラン建て送金または円建て送金を頼む。円建て送金をすると、相手側口座に入金される際に、フランへ換金されるはず。まあ、普通はフラン建てで送金するでしょう。方法2だと、クレディ・リヨネとかインド・スエズなど、フランス系の銀行に行って、送金小切手の作成を申し込む。その場で作ってくれます。
 学校などへの前払い金などは、この送金小切手を使うことが多いんじゃないかな。ただ、手数料が高い。だから、少額だととてもとても損をした気分になる。確か、二千〜四千円くらいしたんじゃないかな。


「いい上昇気流だなあ」
 谷底から吹き上げる風に、わかいた細かいすなつぶが舞い上がった。つち埃というよりも、石灰の粉というようなかんじのすなつぶだった。
「小杉さん、こんな崖のうえも、飛んだことあるんですか?」
 オーバーハングさえしている絶壁の底を、平然と見据える『おいちゃん』に尋ねた。
「こういう風が、ハング・グライダーには一番だよ……」
「でも、飛び降りるような気分でしょう?」
「まあね。そりゃ、慣れてない初心者がやったら、あぶないさ」
 出張先からの直行だったので、このときのおいちゃんは、相変わらずYシャツに紺のスーツ、黒の革靴という姿だった。崖のうえからハング・グライダーで舞い上がる《おいちゃん》の姿は、ビジネスマンの格好からは想像できなかった。
 あらためて、谷底をのぞきこむ。
 ハング・グライダーとは、一生、縁がなさそうだ……。

 リヨンからボーヌまで、電車で約一時間四十分の行程だった。普通電車の二等車両でも、ちゃんと三人座席がふたつ組みになったコンパートメントがある。
 始発駅の Lyon Perracheから乗ったわれわれは、禁煙車両のコンパートメントをひとつ確保した。確保するとはいっても、オフシーズンなので、乗客はそれほど多くなかった。発車十分前でも、まだ空のコンパートメントが多いくらいだった。
 ぼくひとりが進行方向の反対向きの席に座る。
 眠い。
「座席を手前に引けば、リクライニングできますよ」
 町田さんは真ん中の座席の手前でかがみ、腰掛けの下の部分を両手で引いた。ぎぎっときしむ音を立てながら、座席が十五センチほど手前に移動した。背もたれの部分は、移動した距離だけ角度をゆるめた。
 窓際の席に座った小杉さんは、すでにうつらうつらしていた。
 前日、レンヌで山村さんご夫妻と夕食をともにしたそうだ。ワインを二本あけて、まだ酔いが残っているらしい。たしかに、この日、リヨンのしゃれたカフェでとった Bavette d'Aloyau の煮込みを、小杉さんは半分以上残していた。
 目が覚めたら、小杉さんも疲れがとれて、空腹を覚えるに違いない。そのときになったら、Bavette がとてもとてもおいしかったことを、思い出させてあげよう。
 町田さんもどうやら眠る体制にはいったようだ。ぼくの正面では、みどりが
「地球の歩き方」を眺めている。
 だれも足をのっけないことを確認してから、座席を仕切る肘掛けを持ち上げた。
 靴を脱いで、座席の上に足をなげだす。入り口の厚めのカーテンが、ちょうど手頃なクッションのかわりだ。
「そんな格好をしていたら、町田さんが足を乗せられないじゃない」
 さっそくみどりがご注進してきた。
「あ、町田さん、気にしないでのっけて下さいね。はじっこに寄りますから」
 眠る体制にはいっていた町田さんが、はなしかけられて目をあける。
「いや、この姿勢で大丈夫だから」
 みどりが苦笑していた。
 とりあえず、クレームがなければやってしまえ——フランス式交渉術であった。
 出発二十分後くらいに検札があったほかは、ほとんど眠ったままだった。
 ボーヌに到着したのは午後四時頃。日本の国内旅行なら、宿を探して、ひと風呂浴びて、あとは夕食をのんびりと待つ——そんな時間だろう。
 五月のフランス、日没はすでに九時すぎだ。四時というのは、日本でいえば、まだ一時か二時くらいの感覚だ。
 リヨンでは朝がた少しだけ残っていた雲は、もう、どこを見ても破片すら見えない。気温は二十五度を越えていた。パリを出るときにはいていたコーデュロイのズボンが、鞄のなかの邪魔者になっていた。
 ボーヌの小さな駅舎を出てから、小杉さんがなにやら探していた。
「せっかくだから、レンタカーを借りない?」
 賛成。
 でも、駅前でさえこんな閑散とした街に、都合よくレンタカー屋があるのかな?
「いいですね。でも、エイビスかハーツじゃないと、ちょっと不安でしょう?」
「まあ、そりゃ、大きいところの方が、保険とかはしっかりしているからね」
 と、小杉さんとはなしているとき、ハーツの看板が目に入った。
「よかった。簡単に見つか……」
 事務所は引っ越したあとだった。
「とりあえず、街のインフォメーションに向かいましょか?」
 町田さんが、道路の先の標識を指さした。《Village Centrale》《information》
 街中に入れば、レンタカー屋もあるかもしれない。
「あ、バジェットがあるよ!」
 街の外周道路の信号を待っていたとき、小杉さんが左の方を指さした。さきに《information》に行った方が……と言う前に、小杉さんはバジェットの方に向かっていた。
 小杉さんが営業所のドアを空け、「Hello!」とひとこと。
「でもここ、あすの日曜はあいてませんね」
 町田さんがドアに書いてあった営業時間を指さした。なかに入りかけた小杉さんが、え、ほんと、というような表情を浮かべた。
「ま、とりあえず聞いてみましょう」
 提案した手前、ぼくも小杉さんと小さな営業所のなかに入った。
 小柄なマダムは細かな質問にも丁寧にこたえてくれた。
 小杉さんはもう借りるつもりでいた。われわれも、せっかくブルゴーニュまで来たのだから、「黄金の丘」を散策してみたいと思った。
 外はまっさおな空、時間はまだ午後四時、ひとっぱしりすれば、十分に遠足できる時間だ。お天道さまは、まだ南の空。西の丘の端までは、十分すぎる隙間が残っていた。
 一日借りたいのだけど、と言うと、彼女はあっさりと構わないと答えた。
「でも、日曜は休みじゃないんですか?」
「店の前に乗り捨てておいて。ロックをしておいてくれればいいわ」
「鍵はどうするんですか?」
「ドアの横に、郵便受けがあるでしょう?
 その中に放り込んでおいて」
 一同、思わず郵便受けのほうを見てしまった。
「で、あとは……?」
「……あとはって、それでおしまいよ」
 なるほど。
 パリだとこうはいかないが、ボーヌだとこれで十分なのだろう。
「なんだか、途中まで降りてみたくなるなあ」
 町田さんは、すでに崖の少しさき、岩のでっぱったところに進んでいた。
「うーん、見ている方が怖い」
 小杉さんが呟いた。ハング・グライダーなしだと、小杉さんだって崖は怖いのだ。
 町田さんが乗っている岩は、深さ百メートルはありそうな絶壁のうえに、オーバーハングした出っ張りだった。横からみると、もう一段、下までさがれるようになっている。
「でも、登れる保証がないしなあ……」
 アドベンチャーを中止した町田さんが戻ってきた。
「よくあそこまで進めましたね」
 車の近くから眺めていたみどりが、町田さんにたずねた。
「ぼくら、仕事でこういう崖をおりなきゃいけないこと、ありますからね」
 確かに、崖で遭難事故などおこったら、誰かが救助に行かなければならない。消防局に勤務していれば、その誰かになる可能性も高いだろう。
「降りるのはともかく、登るのがたいへんですね。ここだって、降りるだけなら……」
 ぼくなら降りるのもパスしたい。
「さて、そろそろ行こうか」
 小杉さんの呼びかけに応え、われわれはバジェットで借りた、ルノー・クリオの小さなボディにおさまった。


1994年05月12日

 菜の花畑が広がっていた。
 どこまでも、どこまでも、黄色い花畑が広がっていた。
 小さな菜の花畑が、寄せ集まっているのではなかった。
 広角レンズをつけたカメラを、おもいきりローアングルにして、小さな畑を誇張したのでもなかった。
 ひとつ、ひとつの区画が、見渡すかぎり、かなたまでつながっていた。
 電車のなかから、もたれ気味の胃をさすりながら、外をぼんやりと眺めていた。
 前の日とうってかわって、ときおり雨のぱらつく天気だった。
 かなたの地平線と、かなたの雲の境界があいまいだった。あいまいな境界あたりまで、菜の花畑がのびていた。きのうの午後は、真っ青な空と、菜の花畑の黄色、そして、まだ若い緑のぶどう畑が、くっきりとした線を浮かびあがらせていた気がした。

 ブルゴーニュの丘をながめたとき、山並みのみえないことが、印象的だった。
 地図をみるまでもなく、それはあたりまえのことだった。狭い日本と違って、ここは大陸のはしくれ[・・・・]、ゆるやかな丘を背中にすれば、目の前は地平線が広がるだけだ。ブルゴーニュの丘はゆるやかで、とがった山並みなど、見えるはずがなかった。
 ブルゴーニュといっても、ワインのなだらかな瓶を思いえがくだけだった。
 その土地について、あれこれ想像したことはなかった。
 ワインの里といえば、どうしても北海道の池田や余市、山梨県の勝沼あたりを連想してしまう。どの街も、畑が地平線まで伸びていることはなかった。かならず山並みが見えた。天気がよければ、ぶどう畑に残雪の残った山脈は、じゅうぶん絵になる景色だった。
 ブルゴーニュでついつい山並みを探したのは、勝沼などと比べたからではなかった。
 菜の花畑に出会うと、遠くの残雪の山を探すクセがあるだけのことだった。信州の野沢、とくに北竜湖あたりは、そんな絵になる風景をたのしませてくれたものだった。

 胃がおもい。電車のゆれが気になる。朝、無理矢理流し込んだコーヒーが、どうやら失敗だったようだ。
 もらった胃薬の包みをやぶいた。前の日にボーヌの街で買ったヴォルビックの栓を開く。腹に力が入らなかったので、ついつい電車の揺れにゆすられてしまう。胃薬の顆粒が少しこぼれ、袖口に水玉のような粉のあとがついた。
 薬を舌の上にのせ、ミネラル・ウォーターで一気に流し込む。舌先にすこし苦さが残った。その苦さを確認しただけで、なんとなく、胃が軽くなったような気がした。同行者に気づかれないよう、一度、軽いげっぷをした。
 旅行の帰りに胃がおもい——だけど、おもさを感じるたびに、むしろ楽しい気分さえあった。
 胃がおもいのも当然だった。パリに住んでから粗食が身についていたにもかかわらず、前日に夕食では、アントレからバター・ソースたっぷりのエスカルゴを味わったのだ。メインのボリュームが、それに劣るはずがない。チーズとケーキという二重のデザートも、胃には申し訳ないと少しは思いながら、うきうきと味わってしまった。
 子牛のメダイヨンにかかったソースは、前菜のバター・ソースにからまれた舌の上でも、はっきりと自己主張をしていた。
 正直言って、フランス料理のこってりしたソースは好きなほうではない。もちろん、うまいと思うけれど、おろし醤油やわさび醤油で食いたいと思うことのほうが多い。
 でも、このときは最後まで、醤油や大根おろしを恋しくなることがなかった。
 柔らかな肉をたっぷり味わったあとは、パンでソースを味あわせてもらった。十分後、給仕はほとんどぴかぴかになった皿を、ぼくの目の前から下げていった。


 レースといっても、自動車レースのことでござる。  最近、授業が少なくなったので、「黒板のフランス語」がネタ切れ状態である。場つなぎのために、ミニテルで提供されている Marlboro Racint Serviceから、レース関係の用語をおいおいご紹介いたしませう。

formule 1フォーミュラ・ワン
essais qualifs予選
essais libresフリー走行
grille du departスターティング・グリッド
championnat du monde世界選手権
pisteコース
Club des Amis d'Ayrtonアイルトン・ファン倶楽部
ecurie Williams-Renaultウィリアムズ・ルノー・チーム
suspension activeアクティブ・サス
chassisシャシ
moteur V10V10エンジン

 さてさて、セナ亡き後のモナコGP、誰が勝者となることやら。江下の記憶だと、過去十年、このもっとも伝統あるGPは、セナとプロストが勝利を分け合っていたと思うのだが。

「froid」「chaud」は、ホテルのシャワーでトラブルのもとになることも、たまにだけどあるみたいですね。ノブのところに「F」と「C」と刻印してある。「C」を「Cold」と勘違いして、思いきりひねったら熱湯をあびた……なんてことが、実際にあるそうです。

 Beauneでは、ブルゴーニュ産白ワインの Meursaultをば、試飲してみました。まだ若いワインだったけど、なかなかドライでいさぎ良い感じの喉越しでした。


1994年05月09日

 ええ、リヨン、ボーヌより復帰しました。
 胃が痛い。わはは、これは贅沢な胃痛なのぢゃ。
 Hotel des Rempartsは最高ですね。


1994年05月04日

 友人にヒコーキおたくがいたのですが、彼の話によると、ConcordeはB1よりも戦闘能力があったのだそうですね。
 Concordeの巡航高度は地上1万4千フィートだそうです。この高さだと、ジャンボなどの高度に比べ、人が受ける放射線の量がかなり多いそうです。よく冗談で、「コンコルドで何度も大西洋を往復すると、コンドームが必要なくなる」なんてのがありました。冗談ですよ、冗談。
 ド・ゴール空港にはコンコルド乗客専用のラウンジがあります。そこでは、搭乗を待っているあいだ、酒飲み放題だそうです。このヒコーキ、全席ファースト・クラスなんですよね。運賃はファースト・クラス料金の4割増しです。
 ぼくの同僚で一人、海外出張でコンコルドを使ったやつがおりました。会社の規定でそんなのは認められてなかったんだけど、スケジュール調整上、絶対にコンコルドじゃないと間に合わないと「理由」をでっちあげたのですね。予算潤沢なバブリー出張でした。
 彼曰く、「空飛ぶ鉛筆」だったそうです。


1994年05月02日

 きょう、五月一日は、元首相・ベレゴボワの一周忌だった。
 テレビのニュースでは、氏の往年の演説模様などが繰り返し放送されていた。

 が、午後7時のニュースから、ベレゴボワのニュースはトップ扱いから後退した。
 アイルトン・セナの死が、あらゆるテレビ、あらゆるラジオ放送のトップ・ニュースで繰り返し伝えられた。
 トリプル世界チャンピオン、F1史上、最も偉大なレーサー、ブラジルの英雄——死者にはあらゆる賛辞が捧げられていた。
 いま、耳元で始まったラジオ・ニュースも、
 La mort d'Ayrton Senna, ...から始まった。
 きょう一日で、Senna est mort.という放送を何度聞いただろうか。
 サン・マリノGPの悲劇的事故は、TF1生放送のちょうどCMのあいだにおこなわれた。
 CMからイモラに戻った画面が捉えたのは、無惨な姿をさらしたフォーミュラ・カーだった。
 Rothement の文字が見えた瞬間、セナにただならぬ事故がおこったとわかった。アナウンサーの悲痛な声が、セナの大事故を伝えた。
 二十分後、セナがヘリコプターに運ばれた。セナが横たわっていた場所には、おびただしい出血の痕が残っていた。
 その直後、ぼくは FMOTOR4にアクセスした。セナのこの大事故は、まだ伝えられていなかった。日本時間の21:40、ぼくはこの大事故をサン・マリノGP会議室にアップした。
 テレビ放送が終わってから、ラジオのニュースをつけっぱなしにした。
 欧州中央時間の18:05、ボローニュの病院から公式発表があった。
 イタリア語の発表に、フランス語の同時通訳が重なる。ボリュームを上げて、一語一語を聞き取ろうとした。
 extremement grave ということばがくっきりと聞き取れた。一瞬、まだ重体なのだと思ったが、すぐあとに、sa mort ということばが続いた。
 このあまりにも大きなニュースを、ぼくは伝える勇気がわかなかった。日本時間の1:10、ぼくは FMOTOR4に「深刻な状態」と伝えた。
 それから15分の間に、ラジオは Senna est mort.というニュースを三度繰り返した。
 再び FMOTOR4にアクセスしようとした。
 しかし、アクセスが殺到したこのフォーラムに、なかなかアクセスできなかった。
 六度目のトライでようやくはいれたと思ったら、すでにセナの死が伝えられていた。RTの1チャンネルには、このとき 125人の会員が参加していた。



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