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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1994年05月02日

 きょう、五月一日は、元首相・ベレゴボワの一周忌だった。
 テレビのニュースでは、氏の往年の演説模様などが繰り返し放送されていた。

 が、午後7時のニュースから、ベレゴボワのニュースはトップ扱いから後退した。
 アイルトン・セナの死が、あらゆるテレビ、あらゆるラジオ放送のトップ・ニュースで繰り返し伝えられた。
 トリプル世界チャンピオン、F1史上、最も偉大なレーサー、ブラジルの英雄——死者にはあらゆる賛辞が捧げられていた。
 いま、耳元で始まったラジオ・ニュースも、
 La mort d'Ayrton Senna, ...から始まった。
 きょう一日で、Senna est mort.という放送を何度聞いただろうか。
 サン・マリノGPの悲劇的事故は、TF1生放送のちょうどCMのあいだにおこなわれた。
 CMからイモラに戻った画面が捉えたのは、無惨な姿をさらしたフォーミュラ・カーだった。
 Rothement の文字が見えた瞬間、セナにただならぬ事故がおこったとわかった。アナウンサーの悲痛な声が、セナの大事故を伝えた。
 二十分後、セナがヘリコプターに運ばれた。セナが横たわっていた場所には、おびただしい出血の痕が残っていた。
 その直後、ぼくは FMOTOR4にアクセスした。セナのこの大事故は、まだ伝えられていなかった。日本時間の21:40、ぼくはこの大事故をサン・マリノGP会議室にアップした。
 テレビ放送が終わってから、ラジオのニュースをつけっぱなしにした。
 欧州中央時間の18:05、ボローニュの病院から公式発表があった。
 イタリア語の発表に、フランス語の同時通訳が重なる。ボリュームを上げて、一語一語を聞き取ろうとした。
 extremement grave ということばがくっきりと聞き取れた。一瞬、まだ重体なのだと思ったが、すぐあとに、sa mort ということばが続いた。
 このあまりにも大きなニュースを、ぼくは伝える勇気がわかなかった。日本時間の1:10、ぼくは FMOTOR4に「深刻な状態」と伝えた。
 それから15分の間に、ラジオは Senna est mort.というニュースを三度繰り返した。
 再び FMOTOR4にアクセスしようとした。
 しかし、アクセスが殺到したこのフォーラムに、なかなかアクセスできなかった。
 六度目のトライでようやくはいれたと思ったら、すでにセナの死が伝えられていた。RTの1チャンネルには、このとき 125人の会員が参加していた。


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