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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1994年07月11日

 おっぱいの形は、神秘的なまでに多様であった。
 ゆるやかなスロープを描くもの、つんと尖った頂を、ほこらしげにゆするもの、おおぶりなお椀のような半球型のもの、ひらたく拡散したもの……それぞれに個性があり、表情があるという感じだった。
 パリでは毎年大晦日になると、クレイジー・ホースのショーを生中継している。それならすでに二度観ているので、ショーのあらましはわかっているつもりだった。
 むろん、テレビ映像と生とでは、色彩の鮮鋭度が違う。実際、それは違いすぎるくらいだ。
 裸をみるというのは、本当なら、どこか淫靡な雰囲気がなければならないはずだ。その定義からすれば、このときは裸を観ているという気持ちではなかった。
 踊りが切れている。
 身のこなしがなめらかだ。
 からだのひねり、足をはこぶスピード、リズムに乗ったステップ。表情は、しなやかな動きを誇示するようでもあった。
 いやらしさは、どこかけだるくなければならない。だとすれば、こういうショーは、もっともいやらしさからかけ離れた存在だ。健康的すぎるその身のこなしは、むしろ外面の躍動美で迫ってくる。蠢くものとは別物の世界なのだ。
 ひょっとすると、踊りというのは、裸でするのが自然なのかもしれない。しなやかななかに、激しい動きがまざる。
 シャープだ。
 それを見せつけるのに、無駄な衣裳はいらないのかもしれない。裸になることによって、動きを見せつけられた思いだ。
 首が疲れたので、反対側を眺めてみた。
 そっちを向けば、そこには惚けたような観客の姿があるに決まっている。何百組みの視線が、舞台にそそがれているのがわかった。
 その間には、ギャルソンがやれやれといった表情でたむろしている。ショータイムが始まるまでは、とにかく給仕でてんてこまいだった。ショータイムは、彼らにとっては休憩時間のようなものだ。
 首の位置をもどす。振り向いていたのは、どうやらぼくだけだったようだ。みんな、相変わらず舞台を眺めている。


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