過去の日記一覧
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この日記について
この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。 2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。 2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。 1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。 1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。 |
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むかしむかし、はじめて数学史に興味をもったころ、まさか自分が生きているあいだにフェルマーの最終定理が証明されるなんて思いもしませんでした。ハレー彗星は見れるわ、この歴史的瞬間に立ち会えそうだってんで、まあ、もと科学少年としてはけっこう興奮いたしましたです。
「ホロン」という発想は、一時期、コンピュータ・ネットワークで話題になりました。いまから10年前くらいだったと思います。当時は「自律分散型システム」と呼んでいたと思いますよ。システムを人体になぞらえたんですね。
基本的に人体の運動は「中央」の大脳に制御されている。しかし、各部位にも自立的な反応が許される。たとえば、目になにかが飛び込んできそうなとき、われわれは取りあえず考えたうえで反応しようとはしない。反射的に目をつむるわけですよね。熱いものに触れば手をひっこめるってのも、同じメカニズム。まあ、実際は大脳が関与しているかもしれんけど。
各部位に全体トポロジーと同じ処理メカニズムがあるならば、これはフラクタル的ということもできます。
ポリテクニクは受験するだけでも難しい学校なので、入試にパスできなかった生徒は、大学の第三学年に進むことができます。つまり、Universiteの 2e cycle 、Licence を取得するコースに直接編入できるということです。
少し説明を加えますと、ポリテクニクなどの名門GEに入学するためには、準備学級に2年間所属することになります。これは日本の旧制高校と同じと考えればいいでしょう。新制大学の教養課程に相当します。だから、ポリテクニクやノルマルに進学できなくても、大学の方にスライドできることになります。
ぼくが大学三年のときに使っていたテキストの一つが、ノルマルの一年生用テキストだった。はじめえらくショックを受けましたが、システムを知ってほっとしました。
天才数学者ガロアはポリテクニクの高等試問でぷっつんして、黒板拭きを試験官にぶんなげたとうエピソードがあります。大数学者ポワンカレは絵の試験が惨憺たる結果だったけれど、既に天才少年との名声が高かったので、数学教授の特別な配慮で入学が許可されたそうです。ちなみにガロアが通っていたリセ、ルイ・ル・グランは、パンテオンのすぐ近くにあります。ノルマルもパンテオンの近くだな。
ポリテクニックは今年が創立二百周年ですね。先日、記念切手が発売されました。
E.T.ベルの『数学をつくった人々』を読むと、この学校の創立過程やさまざまなエピソードを知ることができます。日本で特定の大学の創立N年記念切手なんて、まず出ないでしょうね。それだけこの学校のステイタスが高いということでしょう。
axiome:ユークリッドの公理(ユークリッド幾何学の仮説です)
「ユークリッドの第五公準(=補題)は公理なり」(ガウス)
選択公理(これが集合論の根本的仮説です)→ L'axiome de choix
ペアノの公理(自然数の定義です)→ Les axiomes de Peano
現代数学で用いられている根本的な公理系は「ツェルメロ=フレンケルの公理系」と呼ばれるもの。
→ Theorie des ensembles de Zermelo-Fraenkel
lemme: ツォルンの補題(選択公理から直接導かれる定理)→ Lemme de Zorn
theoreme:ガウス=ダランベールの定理(別名:代数学の基本定理)
三平方の定理(ピタゴラスの定理)
theorie:【論理学】theorie complete (saturee)完全な理論
→ 完全性に関連するのがゲーデルの有名な定理です。
→ Les theoremes d'incompletude et d'indecidabilite
Les theoremes d'incompletude de Godel
たとえばぼくが何か論文を書くとしましょう。まあ、江下程度の論文では、公理を立てるなんで大それたことはできません。いろいろと証明を重ねる上で、別の定理を証明するための「定理」には、Lemme または Propositionと名付けることになります。Lemme は一種の汎用サブルーチンですね。
日本語で書くとき、Lemme は必ず「補題」ですが、Prop. は「定理」としたり「命題」としたりする。証明の前に言うか、証明の後に言うかで、微妙に使い分ける人もいるみたい。
「 A ならば A でない」これは命題であっても定理ではありません。
「 A ならば A である」これは一般に「恒真命題」(tautologie)の例。
「 A ならば B である」ある公理系において A が成立するとき B も成り立てば、これは「定理」です。
そうそう、Propriete を「論理式」と解釈していたので、どこかピンとこなかったのです。そうか「命題」か。これですっきりした。うっかり「命題」という言葉を忘れていたのだ。
regle や lawは社会科学とかエンジニアリング、自然科学の中でも実験物理で使う用語ではないでしょうか。現代数学では一般的ではありません。
ヒルベルト以降の数学は「形式主義」と言いまして、「初めに公理ありき。そこから定理が形式的に導かれる」という姿勢です。regle は axiome または hypotheseかな。数学用語では「律」と呼ぶ場合もあります(例:同値律)。
law は lemme か theoremeでしょう。ギリシア時代の古い定理で使う場合はあります(例:円周角不変の法則)。中には「原理」(prancipal/aux )というケースもあります(例:岡の原理)が、これも定理のことです。
リーマンは博士論文のテーマを二つ用意して、指導教官であるガウスに示した。そのうちの一つが非ユークリッド幾何学に関するもの。ガウスはこの着想自体、既に十一歳の時に抱いており、躊躇無くこのテーマを選んだ。何しろ当時のガウスはロシアの数学者ロバチェフスキー(この人がやったのも非ユークリッド幾何学の一種)の論文を読むためロシア語を覚えたくらい、この分野には入れ込んでいた。そして1854年、リーマンの行った数学史上有名な講演が「幾何学の基礎をなす仮説について」。講演結果に対し、ガウスは「博士論文のレベルを遥かに越えたもの」と激賛した。
ちなみに、リーマン幾何学とロバチェフシキー幾何学の違いは、前提とする曲面の違いにすぎない。現代数学ではあまり「リーマン幾何学」とか「非ユークリッド幾何学」という言い方はもうしないのだ。曲面上というのが当然の前提だから。微分幾何とか代数幾何という分類があるんだわ、むしろ。一般相対性理論に関連深い分野はテンソル解析ってやつです。
それでもって、ぼくが講義を受けている教室は、あのガロアの母校、ルイ・ルグランの隣りです。そこに行くまでに、高等師範学校の横も通るのです。ここもガロアの母校だな。
高校のとき、数学的帰納法って習いませんでした? こういうやつ。
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数学的帰納法
整数を有する命題Pがあって、Pが
(1)n=1の時に成立する。(またはk)
(2)nの時に成立すれば、n+1の時にも成立する。
の二条件を満たせば、Pは任意(またはk以上)の自然数nに対して成立する。
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これをフランス語で表現すると、
Le principe de recurrence
Soit P une propriete portant sur les entiers. Si P verifie :
- P est vraie pour 1 (respectivement pour l'entier k),
- si P est vraie pour n, alors elle vraie pour n+1,alors la propriete P est vraie pour tout entier (respectivement toutentier n>=k).
黒板にチョークで書きまくる、そんな風景は既に少数派です。学校による違いはあるかもしれませんが、最近は専ら OHPが使われています。 (注:OHPプロジェクタ=retroprojecteur、OHPシート=transparent) ただ、アメリカ式にイラストを入れたり、要領よくまとめたケースは少なく、今まで黒板に書いていた内容を、そのまま OHPにしただけという感じです。ここに紹介するのはその一例。学生には前週か当日に OHPのコピーが配られます。 【表現のポイント】 以下の特徴を有する。= X(s) a (ont) le(s) caracteristiques suivante(s): ...に類例を見いだせる。= On peut utiliser l'analogie de x ... L4G=langage de quatrieme generation 第4世代言語(4GL) langage (non) procerural (非)手続き言語
「以下の特徴を有する」などと言いながら、個条書きにせず説明を延々。なかなか面白いメンタリティだと思いました。 今回の出典は ESSEC の Jacky AKOKA 教授の OHPです。前回は Pantheon-Sorbonne の Francoise GIRE 教授のノートでした。 |
早速板書シリーズの第一回です。これは先週の講義をノートしたものの一部です。講義の名称は「Base de Donnees et Logique:データベースと論理」で、パリ第1大学 UFR27 mathematique et informatique に属するモジュールです。 従って、初回は頭痛を招く(?)数学の話しです。 表現のポイント:「任意の〜に対し〜とすれば(とせよ)〜である」 → Pour tout〜, soit 〜, alors 〜. 数学用語:ensemble「集合」、fonction「関数」、denombrable「可算」 appartenir「属する」、verifier「(条件を)満たす」 関連用語:application「写像」
[感想] この教授はキチっと文章を書きます。これはかなり珍しいパターンといえましょう。普通は乱暴に個条書きする方が多いし、そもそも大半の教授は OHPを使います。次回は OHPの内容の一部を紹介します。 |
私のCGとの出合は約12年前です。ゼミの教授がCGに凝っておりまして、買いたてのApple IIで作成した模様を見せてくれました。この教授、無論本職は数学者でしたが、なんでも某下着メーカーの依頼でブラジャーのデザイン(模様も含めて!)をしたこともあるとか。
前置きは長くなりましたが、この時教授が語っていた「美の奥にはシンメトリーとランダムがある。自然の美はすべからく数学的であるはずだ。」という言葉が忘れられません。依頼、私にとってCGとは数学の視覚的表現手段であり、数学と美術の境界領域という感が強い。
一時期いろいろとCGの資料を漁ったこともあります。しかし、そこに見つけたのは「アトリエ・オートメーション」という現象でした。道具としてのコンピュータはあっても、表現手段としての数学はない。計算は決して数学ではないのに、CGは単なる力づくの計算があるのみでした。
というわけで、いわゆるCGに失望を感じてしまったのでした。
とはいえ、例のフランス人数学者マンデルブローのフラクタルは大量の計算があるとはいえ、私の抱いていた数学の視覚的表現を満たしてくれました。もともと専門が代数でしたので、私は数列を使ったフラクタルに一時期熱中したものです。例えば有名なコッホ曲線は「0,1,5,0」という列を規則的に増殖させたもの、これに乱数をちょっと交えただけで、樹木や山の模様が極めて自然に表現できる。
思うに、単純な数列の展開が、実は自然形成の理に適っているのではないか?だから、数学的な処理を施したものほど自然を忠実に再現するのではないか?などと思う次第です。
昨日Pantheon-Sorbonneに行った時のことである。Grande Ecoleのこじんまりした建物に慣れた私は、まず大学のでかさに今更ながら驚かされてしまった。教授の事務所を探すのも一苦労であった。
まあ、それはともかく、ここの校舎からだと実は我家まで歩いて帰れる。そこでサン・ミッシェル通りではなく裏の通りに向かった。すると、古惚けた建物に「Louis le Grand」という看板が出ていた。これは有名なリセなのだが、私のような数学科出身だと、単なる古いリセというのではなく、あのガロアの出身校という印象が深い。「このリセの図書館であの有名な方程式論の論文が書かれたのか...」とう感慨が一瞬沸いた。
フランスの有名な数学者ガロアの伝記には「天才と狂気」というサブタイトルが冠せられています。科学者の多くもやはり活動の中で「狂気」に酔いしれることがあるようです。一種の没我の境地なのではないかと考えています。実際に研究で一番困難なのは論理で追及できない領域を開拓することでしょう。そのブレークスルーにはやはり「狂気」に似たエネルギーが必要ではないかと思う次第です。無論、開拓後の整地に理性や論理が必須であることは言うまでもないことですが。
フランスはまさにドイツと並ぶ数学の最高峰、これまでにも多くの大数学者を輩出しております。中でも何かと有名なのが方程式論を根本的に変革したエヴァリスト・ガロア。彼の有名な伝記には「天才と狂気」というサブタイトルが冠せられています。
ガウス以降最も偉大な数学者と呼ばれているのがアンリ・ポアンカレ。彼のおかげで5次元以上の幾何学は殆ど究明し尽されたと言われています。「エキゾチック球面」とかいろいろ素敵な用語も残してくれました。絵がヘタなためにポリテクニックをあやうくすべりそうになったそうです。
数学の黄金時代の幕を開けたのがコーシー。彼はポリテクニックの初代教授でもあります。ちなみにナポレオンの命を受けてこの名門校を創設したのが同時代の数学者モンジュ。また、コーシーとともにアーベル失望させたことで有名な(?)ルジャンドルも同時代人です。
古いところでは勿論パスカル、デカルト。未知数にxを使うようになったのはデカルトの発案です。逆に新しいところでは積分論で有名なルベーグ。ルベーグ積分論は彼の卒論だそうです。現役ではグロタンディック、セールの師弟コンビ。この2人は議論が白熱するとtutoyerになるそうです。
数学史ではE.T.ベル著「数学をつくった人々」が面白い。
フランスはこういうお国柄だけあって「formation mathematique」の権威は絶大です。余談ながら、「あなたのご専門は?」は最近では
Quelle est votre formation?と尋ねます。応えは本職でなくても
Je suis/etais mathematician / informatitian, etc.
18世紀くらいまでの数学者はたいてい物理学者や天文学者も兼用しており、ガウスは大数学者であることは勿論のこと、マックスウェル以前の最も偉大な電磁気学者と言われています。んなわけで、磁束密度の単位を「ガウス」としたわけですね。ガウスの法則なんて、昔の物理IIに出てきましたが、今はどうなのでせうか。
1から100までを瞬時に積算したというのはガウスの有名な逸話ですが、ガロアにも多くの逸話が残っています。まあ、一番有名なのは女の取り合いで決闘に敗れて死んでしまったことですが、本職である数学がらみでもいくつかあります。
まず、ポリテクニック受験の口頭試問で対数とは何かを問われた際、模範回答とは異なるエレガントなアプローチをしました。すると、試験官が細かいことまで突っ込み、ガロアは当たり前の事をあまりにくどくど聞かれるので、最後は黒板拭きを投げ付けて「これが僕の答えだ!」と叫んで帰ってしまったというのです。
もう一つ有名な例は、方程式論をまとめて学会に論文を投稿したとき、審査官のポアソン(統計で有名な人)が全く理解できず、しまいには字が読みにくいなどといちゃもんをつけて送り返してしまったことでしょうか。後日、再び論文を書き直して今度はコーシーに送ったのですが、この時はコーシーが論文を紛失するというチョンボを犯し、とうとうガロアはぐれてしまったそうです。
ガロアの死を最も惜しんだのは母校ルイルグランの教師でした。十数年後、ルイルグランにエルミートという数学の天才が現われたとき、その教師はガロアの例が忘れられなかったため、一時期受験勉強に専念させ、無事ポリテクニックに送り込みました。ガロアは5次以上の代数方程式が一般的には代数的に解けないことを証明しましたが、エルミートは後日5次方程式を一般的に解くアプローチを発見したのです。
確率論や「パンセ」で有名なパスカルは狂信的なカトリック教徒であったといわれ、彼が数学を志した目的は神の存在を証明することであったそうです。で、パスカルが最終的に行った証明というのが、「神には全ての属性が存在する。その属性には存在性も含まれる。ゆえに神は存在する。」であったとか。
数学の世界に厳密な証明が賦されるようになったのは、実にガウス以降であると数学史は語っております。
数学モデルと言えば、現在最先端の数理論理学にスペンサー/ブラウンの「形式の代数学」とかいうのがあって、社会学や心理学のモデリングへの応用が進められているそうです。この理論は従来0と1の2値しかない数理論理学(ブール代数)を拡張し、論理値の解として無理数どころが虚数値まで持たせるという不気味な世界だそうです。例えば、論理値ルート2があるダイナミックな状態を表すとか。
現代数学というシロモノはライプニッツの昔に比べて格段に表現手段を増やしています。もとより、数学が万能だと主張する気は毛頭ありませんが、少なくとも数学的にモデル化された高度なコミュニケーション手段ができても不思議ではないような気がします。
必ずしも一般論とは言えないかもしれませんが、おおよそ数学者(特に日欧)は自分の仕事が何に役立つかなんて意識は希薄でしょう。先般、フィールズ賞を受賞された京大助教授が「100年もすれば何かに役立つかも知れませんねぇ」と応えていたのが、まさしく数学者の一般的反応だと思います。数学者は自己満足の美学に浸っていると言われており、何のためにと問われても回答不能かも知れませんね。
一方、最近は数学の細分化・専門化が著しく進み、特に20世紀半ば以降の体系を理解するためには多くの「常識」を学ぶ必要があります。巷の数学の教科書は基本的に「用語解説」であり、私も担当教授から「教科書なんて雑誌や論文を読むための基本単語帳のようなものだよ」と諭されたことがあります。こんなわけで、一般の数学の教科書が定理や公理の目的を明示的していないのも、やむをえないような気がします。それと、物理や経済で利用する数学は数学者や数学科生には「過去の遺物」ですから、両者の要求にギャップが生じるのは無理からぬことと思うのです。そうなると、物理学者なり経済学者なりが執筆したほうが、遥かに目的志向のテキストができるということになりましょうか。
そうそう、ブルバキは現代の数学を全てゼロから再構築(当然、自然数の定義から)しようとするもので、フランスの若手数学者複数が執筆し、セールやグロタンディックといった大御所が評議するというものです。日本では「原論」というタイトルで膨大なシリーズが翻訳されています。数学科生には必携ですが、これははっきりいって相当難しい!私が学生の頃は、ブルバキは一通り勉強をした後の整理に読むものだ、という雰囲気があったように思います。ぼちぼち勉強するためのテキストにはちと不適ではないかな、って気がします。まあ、それでも20代で助教授になったバケモト達は、中学・高校のころからブルバキに親しんでいたというから驚きですが。
決闘で殺されたのはエヴァリスト・ガロアという19世紀フランスの天才数学者です。彼の伝記には「天才と狂気」というサブタイトルが賦されています。彼の打ち立てた方程式論(通常「ガロア理論」という)は数学の中でも珠玉の理論と言われるほど美しく、多くの数学科生はガロア理論に感激して数学を志したものです(あたしもそのクチね)。
フリードリッヒ・カール・ガウス(1777-1855)は所謂3大数学者の一人で、現代数学は全てガウスが基礎を築いたと言ってよいでしょう。ただ、ガウスは一種の数学ヲタクで、自分の発見を積極的に発表しませんでした。「ガウスが自分の発見を全て発表していたら、数学は現在よりも50年は先に進んでいただろう」なんてぼやきが後世の数学者から出ています。なお、ガウスの名文句として「数学は科学の女王であり、整数論は数学の女王である。この女王は時に物理学や天文学の教えを乞うが、玉座は常に数学のものである」というのがあります(だから数学や整数論は何の役にも立たない、と皮肉ったのは森毅かな?)。
大数学者ガウスは学生時代に数学を取るかラテン語の道に進むかを散々悩んだそうです。結局、所謂代数学の基本定理(ガウス−ダランベールの定理)を証明したことが、数学者への道を歩ませたそうです。18〜19世紀当時はラテン語が数学者の共通語だったそうで、中でもガウスはその代表挌だったようですね。また、イギリスの数学者ハミルトンも語学ヲタクで、12才までに11ヶ国語をマスターしたことを、4元数の発見よりも自慢にしていたそうです。なお、ガウス自身も晩年ロバチェフスキーの論文を早く読みたいがために、60過ぎてからロシア語をマスターしました。
まあ、数学もシンボルを用いたコミュニケーション手段ですから、語学との関わりは必然的に強いはずですね。
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