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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ 風俗・文化カテゴリー

カテゴリ「風俗・文化」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「音楽」です。 次のカテゴリーは、「食・飲」です。

1995年10月14日

 以前考えた笑い話。
 午後7時に待ち合わせをした。
 日本人は5分前にやってきた。アメリカ人とドイツ人は7時ジャストにやってきた。アメリカ人は駆け足でやってきたので、息をきらせながら日本人と握手した。ドイツ人は時計をながめ、ジャストでることを確認した。
 30分後、フランス人がやってきた。そして8時半ごろ、エジプト人から「いまから行く」という連絡がはいった。
 ところで、友人の実家がアルマニャックの醸造をやっています。フランスではかなり有名な銘柄だそうで、Tour d'Argent でも人気ディジェスティフなんだそうです。日本市場に参入したいのだが、という相談を2年前に受けたことがあります。いろいろ調べたのだけど、コニャックより知名度の低いアルマニャックでは、並行輸入店以外は困難じゃないか、という指摘を受け、結局そのままになっています。
 一時帰国の折には何度かサンプルをみやげに持ちかえったのですが、飲兵衛の評判はなかなかよかったんですけどね。そのときは25年ものでしたが、35年ものもある。参考までに、銘柄は Cassagne et Freres といいます。


1995年09月30日

 リボンで飾った車が停まっていた。たぶん、新婚カップルを見送る車のひとつだろう。むかしの映画なんかだと、これに空き缶が付いていそうなものだが、いまだに缶付きは目撃したことがない。

1995年09月10日

 一昨年だったかなにかに載っていたのだけど、フランス人の平均初体験年齢はたしか 17.2歳ぐらいだったと思う。いやもちろん、憲法改正じゃなくて(笑)。男女差はほとんどなかったと思います。でも想像よりも奥手なのね>フランス人。てっきり15歳ぐらいだと思っていた。
 Lyceen/lyceenne の高学年になると、かなりの比率でステディなお相手がいるみたいです。このあたりの感覚が違うのかも。


1995年09月07日

その 1:夏の暑い日でもストッキングをはいている(おなごはんのみ)。
その 2:タクシーを降りてドアを閉めずに去ろうとする。
その 3:ビルの入り口で一瞬立ち止まり、開くのを待ってしまう。
その 4:赤信号を律儀に待つ。
その 5:TGV 一等車両で持ち食いする。
その 6:四ツ星ホテルに泊まって、外で飲食物を買って持ち込む。
その 7:おっさんだけで LIDO に行く。
その 8:さほど親しくない人の前で大口を開けて笑う。
その 9:なにを聞かれてもとりあえず「Oui」と答える。
その10:集団でレストランに入ったとき、誰が払うかでもめる。
その11:パックワーカー姿で St.Honore や Montaigne のブティックに入ってしまう。

 ちょっとわかりずらいものもあると思いますが。


1995年09月03日

その1:カフェで 10 Frs のコーヒーを飲み、チップを 2 Frs おく。
その2:原色のハデな上着を着てタイユバンに行き、「いちばん高いもの持ってこい」と注文する。
その3:レストランで「折り詰めしてくれ」と騒ぐ。
その4:美術館でストロボたきまくって写真をとる。
その5:バスを降りるとき、運転手に「トランスファーくれ」という。
その6:Choucrute を頼むとき、バドワイザーも一緒に注文する。
その7:イタ飯屋のスパゲティで「麺が固すぎる」と文句をいう。
その8:F1中継を見て「カーブが多すぎる」とぼやく。
その9:セーヌ川の自由の女神像を見て、「ミニチュアの模造品がある」と大騒ぎする。
その10:Cheteletのことをおもいきり「チェイトレット」と叫ぶ。

 ……ということを巴里でやらかしたアメリカ人は(多数)実在する。


1995年08月27日

 もともと Parisien 自体が、それぞれ etranger みたいなもの。もちろん何世紀も続く家系はある。だけど祖父・祖母までさかのぼれば、25パーセントが移民というのも現実ですね。巴里で活動し、フランス語でコミュニケーションできる——おそらくこれだけが Parisien の条件でしょう。
 以前 SPA! の依頼で調べたとき、「巴里市民は KENZOを日本人だとは思っていない」という意見がおおかった。かといってフランス人でもない。じゃあなにかというと、「彼は Parisien だ」というわけ。
 人種でもない。国籍でもない。家系でもない。要するに、巴里にいて、巴里でクリエイティブな活動をし、巴里で自己主張をする。そしてそういう連中を受け入れる包容力が、巴里という街自体にあるのでしょう。おそらく New York もそうなんだろうけど。
 東京のエネルギーはすごいと思う。世界の Showcase にもなっていると思う。いまどき Tokyo の名を知らなければ、フランスでもアメリカでもあきらかに田舎者でしょう。その点、東京は日本で唯一の国際都市なのかもしれない。でもまだ包容力という点で、巴里やNYとはだいぶ違いますね。むしろ元禄江戸町民文化のほうが、包容力につながる健全な好奇心に満ちていたんじゃないか、なんて思うことがあります。
 ぼくの目から見ても、東京の女性のほうが、いろいろと「投資」しているという気がします。巴里でも5区あたりはずいぶんもっさりしたねーちゃんが多いし……なーんて言ったらおこられるかも。
 現時点で彼我に決定的な違いあるのは、40代以上じゃないかなあ。とくにオッサンの雰囲気となると、まったく違いますね。このあたりは、ほんとうは世代がふたつぐらい交代した、20年後ぐらいを想定すべきなんだろうけど、カタログ世代が中年になってどれだけ自己主張できるのか、ちと疑問ではあります。だっていまの20代前半の世代って、おれから見たって「こやつら、老けてるなぁ」なんて感じるし。
 Paris も New York も Sexy です。京都や San Francisco にもそれなりに色気を感じた。逆に最近の横浜本牧や名古屋とかは、まったく色気を感じられなかった。毒気がないっていうのかなあ。不健全じゃないとつまらんもんよね。


 Paris, New York, Tokyo, Milanoといった国際都市のなかでも、Paris と New York は別格でしょうね。どちらも外国人がやってきて、そこで存分に才能を発揮するのだから。純粋にメディアとして機能しているのは、この二都市だけとはいわないまでも、まさに典型といっていいのでしょう。
 巴里でもNYでも、話題になる monument は、Parisien や New Yorker 以外の人間が創造したものだ、なんていわれますよね。ルーブルのガラスのピラミッドは中国系アメリカ人だし、マンハッタンの国際貿易センタービルも日系人だし。でも逆に言えば、巴里やNYはクリエイティブな人間を吸い寄せる磁場があるってことなのでしょう。
 滞在3年を経て、はっきりと巴里のほうが東京よりも住みやすい、と感じるようになった。いろいろな理由もあるのだろうけど、自然に巴里の空気を吸えるようになったから、だという気がする。もちろん、こっちにいても、そのまま仕事ができるというのもおおきいと思うけど。
 7月に二週間ほど日本に滞在したとき、なんか緊張感じてしまった。自然なカウンター・カルチャーがないというか。ヘソ出しやチャパツねーちゃんも、妙に身構えているって感じがして。
 これはぼくだけの考えかもしれないけど、カウンター・カルチャーには理論武装が必要ないと思う。
「気にいらねーよー」
 ってリアクションがあって、そこからすぐに行動しちゃう。こういう若気の至りが、カウンター・カルチャーじゃないか、なんて思う。だけど東京で感じたことは、反抗するにも理論武装が必要で、そのためにも行動に「意味」や「信条」を盛らないとあかん、って空気。ぼくが巴里でヘソ出しているねーちゃん見たら、単に「暑いからな」で納得しちゃうんだけどね。こういう素朴なリアクションじゃないところに、なんともいえない緊張感を覚えてしまった。


1995年06月24日

 統計によると、バカンスで旅行に出かける Parisien/Parisienne は、全体の30パーセント程度だそうです。「みんなして南仏に出かける」というのも、一種の思い込みでしょう。巴里がもぬけの殻になるというのも、昇天祭の前後数日ぐらいのもんです。
 ただし、Boulangerie は3週間休暇とかを実施します。店に「ここが営業している」って貼り紙が出されるんですね。べつにチェーン店でもなんでもないのに。
 あと、カフェにバイトさんが増えるのも、バカンス・シーズンの特徴でしょう。バカンス休暇中に観光地でバイトするひとは少なくないですね。travail noirっていうんですけど。通常の雇用者はこういうことをしちゃあかんから。
 知人の話だと、休んでもなにもしないのがいいんだそうです。ノルマンジーに別荘を持っているような人でも、彼の地でぼけーっとしていたり、ゆっくり本を読んでいたりするだけってことが多いそうです。


1995年05月23日

 Paris Dauphineには知り合いが理事をしている研究所があり、7年前に訪問したことがあります。建物の中のひどさには呆然としたぞ。まあ、そんなだから、去年は大々的な学生デモが繰り返しあったんですけどね。一昨年は Sorbonne がデモばっかだったんだけど。
 Paris 3 Censier Daubenton のトイレは男女共用が多いみたい。小さい区画は別々なんだけど、校舎中央のでっかいとこは、ドアに男マークと女マークがといとる。
 一昨年は Paris 1の Pantheon 校舎、Paris 4 の Sorbonne 校舎、Paris 11の Orsay校舎に講義が散在されとったのだけど、Orsay の研究所のトイレもすごかった。なにしろ大用の便器に便座がついてねーの。Pantheonはそれでも半分ぐらいはついていたのに。
 みんな便座なしでどうやっているんだろう? ぼくは必死に中腰姿勢でやりました。ひょっとしてフランスがスキーのアルペンで強かったのは、みんなトイレでクラウチング・スタイルを鍛えていたからだったりして。
 ESSEC は Tour Administratif のトイレはなかなか綺麗なんですが、個室の照明が例のミニュットリー。だから、長時間ふんばっていると、いきなり真っ暗になるうだな、これが。


1995年05月17日

 とある欧州通にいわせますと、「他人なんぞ、ないするかわかったもんじゃない。突然刃物を突きつけてくるかもしれないし。その点、イヌなら安心だ。それに赤子ならこっちに危害を加える危険性も少ないし」
 ということで、イヌと赤子は安心のシンボルみたいなもんだ。イヌや赤子をつれいていると、ある程度の「免罪符」となるみたい。


1995年04月13日

 先日、モンパルナスの焼鳥屋にいったときのこと。カウンターの客は、半分ほどがフランス人でした。こちらはコ字型のはしっこにすわり、客全体を見渡せる位置でしたので、彼らがどんな食いかたをするか、それなりにおもしろい観察ができました。
 となりのフランス人カップルは、味噌汁・ご飯つきコースを頼んでいました。まず味噌汁を片手に持ち、それをレンゲつかってのむ。やっぱりすするのは抵抗があるのでしょう。だけど、はしさばきはなれたもんです。焼き鳥も brochette ですから、食いかたで悩むことはないでしょう。
 で、最後にそれがおこった(笑)。ご飯がずっと手つかずで残っていたんです。彼ら、やおら焼き鳥のタレをそこにぶっかけ、うまそーに食っていた。ひょっとすると、鳥丼とか鰻丼で、タレのかかったご飯を気に入ったのかもしれませんね。


1995年04月03日

 日本では二度ゲイにつきまとわれ、フランスでも一回、テレホン・ホモ電話に見舞われたことがある。電話口で野郎から「Mon cheri」と囁かれるのは、それはそれは気色悪い経験だった(笑)。でも最初は住宅環境に関するアンケートだっていうんだぜ。
 巴里のゲイたちの溜まり場ってえと、やっぱ Les Halles あたりが多いんじゃないのかな。そうだ思い出した。知人のはなしだと、ポンピドー・センター裏側の Beaubourg 通り沿いが有名なんだそうです。


1995年03月18日

 フランスのコミュニティは、資格社会でもある。ただ、その「資格」とやらは、たいてい取得できるものであって、人種差別のようなニュアンスとは大幅に異なる。このあたりは「区別はするが差別はしない」ということ。
 正直言って、ぼくは学歴でトクしました。いまのアパートの大家さんは、ぼくが同じ grande ecole の生徒だとわかったとたん、対応がまったくかわりました。一度うっかりと家賃滞納しても文句もいわれなかったし。先住者は最初から三ヶ月分の depotを要求されたらしいけど。
 銀行の口座開設だってそうです。このあたりは日本以上に学歴のご威光はは大きい。フランスは学校によって初任給からして違います。学校の Hit-parade は「出身校別初任給ランキング」として発表されますから。
 資格社会ってのを強く意識するのは教授や講師との会話ですね。教授どうしはみんな tutoyerです。学生どうしもそう。だけど、教授と学生は vouvoyer です。が、ひとたび博士号をとると、tutoyer にかわります。このあたりは「同一階層の相手には tutoyer」という原則があるように思う。
 微妙なのは、3e cycleの学生と enseignant-chercheur クラスの人たち。個人的に親しい場合、プライベートではほぼ tutoyerです。ぼくの師匠である Mme.PIVETTE Muriel とは、普段は完全に tutoyerです。呼ぶときも「Muriel」「Massa」だし。
 ボスの M.PALMER Michael がまざるとき、彼女とボスは tutoyerだけれど、ぼくとは vouvoyer です。もちろん、このときぼくのほうからも Muriel とは呼ばずに、Mme.PIVETTE って呼んでます。で、ボスが消えるとすぐに「Muriel, tu vois...」です。


1995年03月15日

 アラブ人とつきあいがおおいので、宗教に関する話題は話します。いつも彼らに主張するのは、「日本では神の信仰と宗教の信仰は別である。森羅万象に神意が存在すると考える」ということ。これ、自然信仰の基本ですから、わりと納得のいく《原理》なんですね。
 多神教というものに対しても、「あ、ギリシャ神話と同じね」という反応がおおい。で、ここぞとばかり、ギリシャ神話と日本神話の共通性を出してみたりする。オフフェウス神話、アンドロメダ神話あたりが定番です。
 議論で注意しなければいけないのは、《原理》の違いは妥協のしようがない、ということ。これはお互いに尊重するっきゃない。《原理》の違いを笑ったりすると喧嘩になります。
 反対に、《現象》は説明しなければいけない。なぜそういうことになるのか、と。われわれがおこないがちなのは、説明を避けるがゆえの「日本人特殊論」ですね。だいたいどの民族もそれぞれが特殊なんだから、「われわれは特殊だ」という主張は、単なるコミュニケーション拒否にしかならない。特殊じゃないと信じているのは、アメリカ人だけでしょう(笑)。
 フランス人やアラブ人だと、天皇制の歴史的、文化的、政治的位置づけに興味のある人がおおい。説明のポイントとしては、フランク王国や神聖ローマ帝国とローマ教皇との関係と比較するといい。権力発行機関という役割で共通していますから。
 本なんかを見ると、「幕府」が「pouvoir gouvernemental」で、「朝廷」は「pouvoir religional」なんて対比をしてますね。


1995年02月26日

 巴里のひとたちって、わりと地味。ここ何年か、「巴里にはあんまり美人はいないね」という話しをよく聞くのだった。これは観光客の行動半径がおおきく影響していると思うが、間違いなくいえることは、東京の平均的な女性に比べて、もろもろの投資額は少ない。ブランド品だって持っているわけじゃないし。まあ、もともとこれは階層的な考えの産物だし。
 ただ、彼女たち、決めるときは決めまくる。たとえば2e cycleぐらいまでの学生なんて、みんな化粧っ気なし。たしかに学校に化粧してきたってしょーがねえっていうのは、納得のいくロジックです。でも、就職面接とかっていうと、やっぱとっておきのスーツを着てますね。
 だから、巴里のファッションではぜったいに一般論は通用しない。TPOによるコントラストが激しいからね。場所によっても相当違うと思う。サントノーレあたりを基準にしちゃいけない。やっぱMontaigneとかに行かないと。


1995年02月19日

 話題にものぼらないうちに、バレンタイン・デーがすぎてしまっている(笑)。
 あたしゃチョコレートが大好物でして、2月14日は人一倍ときめく日であります。おっさんになって開き直りがでてくると、もらうのを待つのではなく、あちこちに督促してまわる(笑)。有名は警句に「壁の華となる者ほど、えてして自分から声をかけようとはしない」というのがあります。意訳すると、「バレンタインにチョコがもらいないとぼやくものは、たいてい自分から催促しないものである」となる……わけないこともない……よね(笑)。
 しかし、バレンタインデーの話題は我が家ではタブーである。おととし友人にフランスでのバレンタインの習慣をたずねたら、「ああ、恋人たちが愛を告白しあって、たしか男が指輪かなにかプレゼントするんだよね」とぬかしおった。で、これがカミさんの耳にはいってしまったのである。


1994年12月19日

 よか*んち*……ほとんど忘れちゃったなあ。だいたいこの唄は、酒の強いヤツが一升瓶に残った酒を一気に飲み干して……というパターンが多かったはずだから、下戸のぼくには縁が薄かったのだ。
 そういえば、アテネ・フランセに通っていたとき、なじみの講師○レさんから
「数え歌を教えてくれ」といわれたのだ。で、翌日ぼくは会社で思い出しながらワープロ入力したのだけど、どうしても6番を思い出せずに困っていた。
 そのときふと先輩のひとりが、新人歓迎会のときに副社長のまえで「金太の大冒険」を歌ったという逸話を思い出した。で、先輩に尋ねると、すぐに6番まで歌ってくれた。おかげで次の授業までに、歌詞をペ○師にわたすことができた。

 どえらくよろこんだ○レ師はフランス語バージョンをつくり、それをディクテの試験で使うといっていた。が、その後実現されたという噂はまったく聞かない。


1994年12月12日

 AVのフィニッシュには、いろいろと流行があるようです。ビデオ世代ではガンシャでありましょうが、かつての Blue や裏時代はまた違ったパターンがありましたです。
 フランスやドイツのXをいくつか眺めてみると、「モノの世界」というものを感じたりします。すべてが機械のように進み、排泄物でおわる。日本のAVとはどこか土壌が違うという気がしてならない。涜神的な意味って、潜在的なところであるような気がしますね。黒ミサ関係では排泄物がキー・アイテムでしょ?
 涜神的行為で束の間撹乱状態に陥る——これは遊びの四原理のひとつ、眩惑状態です。
 流言の規模は関心のと曖昧さの積に比例するそうです。同性愛やSMの場合、世間の関心を呼ぶトピックスとなっていること、そのわりに実態がまったく知られていないことから、さまざまな流原がとびかう。それが不安を招いているような気がします。
 旧共産主義国家に関してこの公式があてはまりますね。現在では北朝鮮に対する感情なども、この公式通りでせうか。 日本人の差別意識の根源には、「けがれ」の思想があるといわれますよね。これの救済行為が「禊ぎ」であることはご存じの通り。


1994年12月10日

 イギリスではかつて、ゲイは合法、レズビアンは違法だったんじゃないかなあ。たしかヴィクトリア王朝時代だったような気がします。俗説によると、女王さまは「ゲイなんてこと、あるわけないでしょっ!」と確信してて、あえて禁止の法律を公布しなかったとか。ゲイとレズビアンが逆かもしれない。
 同性結婚を認めるとは、風俗的タブーの違いというよりも、相続や控除の問題によるものみたいですね。もしそうであれば、フランスでは認められる可能性は低いと思われます。これは落合さんのご専門ですが、こと相続に関して、フランス人女性の地位は驚くほど不利なようです。同性結婚は相続の権利が当然妻と夫で対等でないと成立しづらいでしょうから。
 某カトリック教徒によると、喫煙も「罪」なんだそうですよ。あれは寿命を縮めるから、広義の自殺にあたるとか。
 オナニーについては、キリストの「心で姦淫するものは実際に姦淫するのと同じだ」なんて看破がありませんでしたっけ?


1994年12月08日

 男色といえば陰間ですな。いまでこそホモはアメリカとかイギリスが有名だけど、日本は風俗史をながめる限り、古代ギリシャ・ローマなみの男色文化の国でしたね。戦国時代の御稚児さんは典型ですが、江戸時代になると「陰間茶屋」といふ男色専門のナニがござって、これは実に世界の風俗の最先端であったようです。オカマの語源は「カーマ」(愛欲)で、これは坊さんたちの隠語だったそうです。
 この点、ヨーロッパ社会は近代まで相当保守的だったはずで、日本は明治時代に先端の文明といいながら、風俗面ではこの保守的な風潮を受け入れた、といえるのかもしれまへん。まあ、風俗に関しては、なにがいいという価値評価は無意味ですが、元来ニッポン人はこの方面でえらくおおらかだった、という説はかなり有力だそうです。
 ここまではオトコの悲しきさがですが、オンナ方面ですと、江戸大奥がらみの川柳でいろいろな俗説・珍説が飛び交っていますね。もっとも、いちばんトラッドなのは嵯峨天皇と道鏡でしょうが。
 大奥関連では、角先生が大活躍あそばされますです。


1994年12月07日

 獣姦という現象は、わりと世界中の風俗にみられる現象ですね。
 コロンブスの世界史的な業績はなにか? これはアメリカ大陸の発見ではない。なぜなら、コロンブスが見つけなくても大陸はそこにあり、単にヨーロッパ社会がその存在を知っただけなのである。……なーんて突然話しは大げさになってしまうけど、コロンブスが世界史に残したもの、それはタバコと梅毒の普及といわれています。どちらもアメリカ原住民の風俗・風土病だったそうです。
 で、梅毒といえばスピロヘータパリダですが、そもそもこれは牛の病原菌だったとか。これが獣姦によって人間に伝搬したって俗説があります。この梅毒は、鉄砲と一緒にポルトガル人が日本に持ってきました。そして鉄砲が戦国武将にゆきわたるよりもはるかにはやく、梅毒は日本全土に広がったそうです。おそるべし、コロンブスの置きみやげ。
 梅毒は江戸時代になると華々しく広がり、多くの川柳にその悲哀を語ったものがみられます。当時、梅毒の特効薬として水銀軟膏があったが、梅毒が治ったあとに水銀中毒になった、なんてことも多かったとか。で、紫色の染め物は水銀を使っていたとかで、紫の布でちんちんをくるめば梅毒にはかからない、という俗説が流布したそうです。どこまで本当なのでしょうねえ。いまなら《都市伝説》になりそうだな。


1994年12月04日

 あの〈Qu'est-ce que c'est,"OTAKU"?〉なるルポはぼくも見たけど、フランスの報道特集らしくないという印象を持った。F3の〈Marche du Siecle〉あたりが扱えば、だいぶ内容も構成も違うんじゃないかなあ。
 なんというか、奇異な現象にスポットをあて、「こんな変な連中がいるんだぜぃ」みたいな視点が多かったような気がした。こういうセンセーショナルな扱いって、どちらかというとアメリカ的という気がするけど、こりゃ偏見かな。フランスのジャーナリズムだと、どっちかといえば、その背景とかメカニズムについての哲学的考察なんかをやりたがるような印象がある。
 オタクについては、漫画という日本文化が生み出した現象というよりも、階層なき過剰競争社会の結末という気がする。このあたりの分析は中島梓『コミュニケーション不全症候群』に詳しいのだけど、同じ社会的状況が生じれば、ぜったいにどの文化圏にもオタクは生まれると思う。直感的には、アメリカの〈白人屑〉なんてのも、アナロジーが成り立つような気がする。
 このあたり、「競争とアノミーとカウンター・カルチャー」という視点から眺めれば、かなり普遍的な原理みたいなのが導き出せるような気がするんだよねえ。


1994年11月03日

 ぼくもアリアンス時代に筆記体を直されましたです。フランス語の小文字では 「q」が特徴的ですね。あと、M、t、r なんてのも、日本で習う筆記体とはだいぶ違うように思います。
 たぶん、ぼくの筆記体は、すでに標準的ローマ字教育を受けた日本人には判読不能だと思う。実際に郵便物を送ったら、「返事を書きたいけど住所が読めません」というメールを貰ったことがあります。別に地元民を気取っているわけでもないんだけど、筆記体には言語によって必然的な崩し方があるように思います。英語とフランス語とでは綴りのパターンが違うわけですから、実際にフランス人が崩すスタイルは、やっぱりフランス語の速記には適していると思います。
 ちなみに「q」は日本人の数字の「9」とほとんど同じです。英語式にきちっと書くと、「それは g だ!」と言われます。


1994年11月02日

 記憶によりますと、オンナからオトコにネクタイを贈るのは、「あなたにくびったけ〜〜〜」という合図だったやうに思います。で、お返しはペンダントだったんでは。ブレスレットでも可。「はなさんもんね〜〜〜」ってか。
 ハンカチは「サヨナラ」、とくに白いの。
 むかーし、つきあっていた子からハンカチを突然もらい、けっこう落ち込んだりしました。なのにその日の夜、当の本人から週末のデートの誘い電話がかかってきて、わけわかめ状態になったことがあります。十年後のある日、むかしばなしでそのココロを尋ねると、「え、そういう意味があるの?」と驚かれてしまいました。彼女は単に、ぼくが手を洗ったあと自然乾燥させているのを見かねて、ハンカチをくれたんだそうです。


1994年10月25日

 東京の道は、あれはあれでコツをつかむと運転しやすい。交差点に名前がついているし、行く先表示がわりと充実している。横浜や川崎なんて、その点、ほんとにヒサンなもんです。まあ、京都の驚異的な運転しやすさに比べれば、東京は迷路ですよね。ぼくは京都市内を走るときは、頭の中で「丸竹夷……」を暗唱したりします。だから、南から北に向かうときはけっこうたいへんなんだわ、これが。
 道はあれこれ考えるより、方角に従った方がマクロ的に正しい、と常に割り切ることにしています。まるでハトでんな。ただし、南半球で夜にこれをやると、カンペキに方向が狂います。フィリップ島からメルボルンに戻るとき、ぼくは迷わず50キロほど反対に向かってしまいました。オリオン座が逆立ちしてんだもんなあ。


1994年10月07日

 経験的にいうと、挨拶の embrasserはほとんど抱擁に近い意味でしょう。キスと翻訳しても間違いじゃないだろうけど。
 まず、embrasser のやり方……ちゅうのも変ぢゃが。だいたいお互いの腕を軽く包むようにします。ぎゅっとは抱きしめない。あくまで包むようにね。ご用心。で、キスするってよりも、頬を寄せあうようにします。ここで面白いのが、ひとによって利き頬みたいのがあることね。ぼくは右頬だけど、エジプト人の友人は左頬からが多いと言ってました。右頬からってひとが多い気がするけど。
 挨拶の embrasserでは唇を頬にふれたりしません。別にいけなくはないんだろうけど、たいていは頬を接し、「ちゅっ」と音を立てるだけです。回数は、フランスだと四回が基本です。ただし、パリだと二回という簡略型も多い。スペイン人やイタリア人も4回っていうのが多いみたい。一説によると、ポーランドとかチェコは三回か五回だそうです。
 フランスだとまあたいていは男女か女同士の挨拶です。が、アラブ人は男同士でもときどきしてますし、フランス人でも、誕生日とかお祝いのときなどは、男同士でも embrasserをすることがあります。あとはおじいちゃんと孫とかね。
 唇が触れるというニュアンスは、baiserの方がかなり強いでしょうね。こっちのほうは、ほんとに「ぶちゅっ」という雰囲気があるし。ディープ・キスはなんて表現するのだろーか?


1994年10月04日

 夏時間からの切り替えは、しらないうちに終わっていました。
 切り替えの当日、友人に招かれていたんです。約束の時間は6時でしたが、われらは例のごとく(笑)、6時半を目標に行きました。ラテン・タイムってやつです。
 で、友人宅につくと、彼の奥さんが「おや? 随分早いわね。たしか6時だったわよね」なんて言うんですよ。まあ、わしら、いつも一時間遅れというアラブ・タイムだったんで、一時間遅れ=7時よりも三十分早かったという意味だと思ったんです。彼も買い物に出かけていたけど、別に不思議だとは思わなかった。
 すでにおわかりだと思うけど、時計を一時間遅らせるのを、ころっと忘れていたのでした。だから、実際には5時半に着いたんですね。こりゃ、たしかに早い到着であった。それに気づいたのは、家に帰って、テレビをつけたときでした。


1994年09月24日

 Cafe avec Glaces だと、いわゆるコーヒーフロートじゃないだろーか?
 ガレットにアイスをのっけるくらいだから、ホットコーヒーにぼてって乗せても不思議はないように思うけど。
 この夏日本にいたときは、とにかくアイスコーヒーを飲みまくりましたぜ。ニッポンの味だからねえ。
 スイスのベルンで「あいすこおひい」といえば、「コーヒーひとつ」って意味になりますね(笑)。おそるべし、スイス訛である。


1994年09月03日

 すごーく有名なジョークだけど……無人島に男二人、女一人が漂流したら……。
 イギリス人なら、誰も紹介してくれる人がいないので、男は二人とも手出しをしかねるだろう。
 アメリカ人なら、三人で毎日よろしくするだろう。
(注:アメリカ人には複数バージョンあるらしい)
 フランス人なら、女は一人と結婚し、もう一人とコキュするだろう。
「二人の社会」というのは、対立と妥協の単純な構造があるだけですね。それに対し「三人の社会」になると、必ず陰謀が加わる。だから、ストーリーとして格段に面白くなる。
 中国史の中で三国時代が群を抜いて面白いのは、やはり三分鼎立構造があったから……とすると、話しが大げさすぎるか。
 話しを戻すと、最初、A、B、Cの三角関係があったとする。ぼちぼちBが勝ち、Cが負けるという決着が付きそうになったとする。そこに、Cの友人Dが現れAB関係をぶちこわし、今度は新たにACDトライアングルができる。ところが、Cには長年の恋人Eがいた!
 ACEトライアングルが水面下で進む。さらに、冷たい恋人Cに嫌気がさしはじめたEとDがいつしか深い仲に。AとC、EとDで収束に向かうかに見えた関係に、最後はBの復讐の陰謀が……。
 やっぱり三角関係は無限の螺旋構造を生み出す要素でんな。


1994年08月02日

 さる貴婦人、公式の場にてガーターを落としてしまえり。それはそれはハシタなきこと、貴婦人なむ狼狽しける。
 そこに、とある貴族たちあらはれ、やおらガーターを広い、何気なく胸に飾ったとさ。
 むむ、ガーターを胸に……。
 意味ありげな笑いをするひとびとありき。
 かの貴族、それを見て曰く、「邪推を抱くものに災いあれ」
 以上、ガーター勲章物語であった。


1994年07月28日

 衣服というと、ウェスターマルクの「裸体に対する羞恥心は決して衣服の発生原因ではなく、むしろ衣服の存在によって生み出されたものである」が印象的であります。衣服こそ、機能中心主義では説明しきれないのが面白いですね。むしろメディアに近いんじゃないのかな。
 前に小説工房で面白いエッセイがありました。「似合う(と思う)服」「好きな服」のほかに、「安心できる服」があるんじゃないか、という指摘です。日本のサラリーマンが夏でもスーツにネクタイというのは、たしかに「それを着ていると安心できる」って心理があるのかもしれない。共同幻想としての衣服の役割というのも、考えてみれば面白いかもしれませんね。
 ある在日フランス人のコラムにもこんなエピソードがありました。最初、制服が不気味だったそうです。なにやらナチズムを連想することがあったとか。ところが、長年住んでみると、その効果を評価できるようになった。共同体維持に必要な帰属意識を保つために、制服はおおきな寄与があるんじゃないか。で、日本のような過密社会だと、制服はむしろ不可欠かもしれない、と。
 フランスのファッション観あたりとは、案外とこのあたりに本質的な違いがあるのかもしれませんね。


1994年07月27日

 じ、じつは、昨日、『遊びと人間』を買いに行ったのでした。ところが、どこを探しても、店員に尋ねても、カイヨワは一冊すら置いていなかった。パリのジベール2店に行ってこの状況だから、ひょっとしてもう人気がないのかなあ、などと心配しています。fnacでも探してくるつもりですが。探したフロアがまずかったのかも。位置づけについてはまだいろいろ悩むところですが、「遊び」に興味を持ったきっかけは、サルの塩味イモの話しです。京大霊長類研の研究ですね。
 メディアの発達は、いやでも情報の過剰流入を促すはずです。そこにイリンクスの発生する余地があるように思います。特にネットワーク上のバトル、いわゆるフレーミングは、このイリンクスで説明できる部分も多いのではないか、と考えています。「ネットワーク文化はバトルの中に発生し、発達する」という可能性すらあるという気もする。ルーデンスじゃないけど。
 メディアの利用は必ず手段から遊び、機能から環境に向かうパターンがある。電話が典型ですね。そんなわけで、「遊び」「めまい」をキーワードとして考えています。
 皮膚というか、皮膚感覚についても、まさに自己と他者、あるいは外界との境界として捉えています。この領域について今回の一時帰国では、村上春樹の小説を買いあさろうと思っています。


1994年07月25日

 ヌード・ショーの合間に、幕間芸は三つあった。瓶のほかには、体操選手のようないでたちの男五人組によるバランス芸、そして、最後にはLIDO専属芸人による帽子芸だった。
 きらびやかなショーの合間にみせるこれらの芸が、ほんとうにプロのカネを取る芸だなあ、という感動を招いた。もちろん、ショーの洗練された踊り、鍛えぬかれた肢体は、それだけでも堪能できるすばらしさだ。ストーリー性のある演出のおかげで、踊りや展開を物語としても楽しめる。
 そして、幕間でも緊張と弛緩をたくみに織りまぜた芸だ。
 ぼくはLIDOに限らず、いわゆる「夜の観光コース」はそれほど興味を抱いていなかった。それどころか、「カネと時間の無駄」というステレオタイプを抱いていたのも確かだ。
 決して安くはない。
 最低でも数百フランはする。安いホテルの3、4泊分のコストだ。
 でも、と思う。
 ここで演じられているプロの芸は、それだけの出費にあたいするものだ。決して損をしたという気分にはならないだろう。
 今回は接待に便乗したかたちだったので、ふところはまったく痛まなかった。そのせいもあるかもしれないが、東京のディナー・ショーとかの費用を考えれば、十分に許容範囲だと思う。
 そう年中行ってみたいとは思わないけれど、たまにはこういう大人の世界もいいな、と思うのであった。
 でも、やっぱりオジサンだけの大集団だけはちょっとカンベン。
(おわり)


1994年07月20日

 F2の「Qu'est-ce que c'est "OTAKU"?」はぼくも見ました。いきなり「Tokyo,GaGaGa」の街頭デモから始まるんで、こりゃ、えれえ騒々しい番組だなと思ってしまった。オタクの命名者、中森昭夫が全体の統括コメンテータとして登場します。いつか話題になった人形のオタク、アニメ・オタクなどのインタビューがあって、ときおり日本の社会心理学者がコメントを加えるという構成ですね。最後は晴海のコミケの場面が紹介されます。
 センセーショナルに扱っていないことは、とても好感のもてるルポですね。ただ、そのために「面白味」は若干欠けるかもしれない。個人的には中島梓にインタビューすればよかったのになあ、と思いました。オタク研究で一番踏み込んでいるのは彼女でしょう。


1994年07月15日

 ショーの合間にある「大道芸」の方が、後から考えると印象的だった。LIDOまで行って、芸に夢中になるというのも色気のない話しだが。
 案内してくれた外交官氏の話しだと、レギュラーでやっている芸人がひとり、あとはその都度代わっているそうだ。あまり客受けしない芸人は、すぐに打ち切られてしまうらしい。
 この日、最初の幕間に出てきたのは、壷振り(?)芸を見せる小柄な東洋人だった。
 最初は陶器の花瓶を高々と放りあげ、それを頭上や眉間の上で受け止めた。さっと投じられた陶器が、ぴたっと受け止められる。芸人は足を肩幅ほどに広げ、両手の拳を軽くにぎり、拳法の受けの形のようにして、左右に腕を突き出していた。
 上目遣いにして、陶器の動きを見据えている。単純な芸だが、動きが一瞬にして静止する緊張感はなかなかのものだ。
 徐々に大きな壷に取り替え、最後は火鉢ほどの大きさの陶器を出してきた。
「プラスチック製じゃないの?」
 元同僚がつぶやいた。
 彼だけでなく、見物人の多くが同じことを思っただろう。それほど大きく、肉厚のある器だった。小柄な東洋人が持つと、ひょっとしたら次の芸は、その瓶の中にもぐりこんで終わりじゃないか、とさえ思ってしまう。
 芸人の方も、こうした疑惑は承知なのだろう。まず最初に彼がしたことは、いかにも重そうにそれを振り上げ、インド人のようにそれを頭上に乗せ、左手でそれを支えつつ、右手で景気よく器を叩くことだった。陶器の乾いた音が何度か響く。本物だと納得しておこう。
 本当に重いのだろう、それまでのように、頭上高々と放りあげるわけにはいかなかったようだ。反動を付けて振り上げた瓶を、そのままピタっと眉間の上に乗せる。
 足は肩幅よりも遥かに広く構え、手は水平近くにまで広げられていた。首の筋肉に緊張が走っているようだった。
 重い瓶を乗せるのは、それはそれで大変なことなのだろう。が、それだけではいかにも芸がない。
 それはプロたる彼も先刻ご承知。
 瓶の安定を確認したあと、かれは首をすばやく左にひねり、一瞬にしてストップさせた。
 物理学の法則の復習ではないが、摩擦によって回転運動を始めた瓶は、一瞬のストップによって慣性運動に入る。彼のすばやい動きは、瓶と眉間の静止摩擦係数を上回ったのだろう。瓶が彼の眉間上で、そのままゆっくりと回転し始めた。
 客席から歓声が出始める。彼はそのまま、小刻みにきゅっきゅっと首をひねる。その都度、瓶は回転速度を上げ、最後にはぐるぐる回っているといっていいほどのスピードになった。
 彼のひたいはすりむけないのだろうか?
 場内からやんやの歓声と拍手がわき上がる。そのタイミングを見計らって、彼は重そうな瓶をおろした。ひたいには、別に血は滲んでいなかった。
 再び瓶を眉間上に乗せる。まさか同じことを繰り返しはしないだろう。心持ち、さっきの時よりも緊張しているような風もあった。
 大股の足構えを徐々にすぼめる。その都度、首の筋肉に緊張が走る。小刻みに振るえているようにも見える。
 そして、肩幅より少し広いくらいの位置になったとき、彼はそれこそ忍者のような身のこなしで、体を90度ひねらせた。
 それは、本当にあっというまのの身のこなしだった。運動の開始と終了があまりに突然のことなので、一瞬、それが何の芸なのかがわからなかったほどだ。
 が、彼が何をやったかは明らかだった。瓶の位置はもとのままで、それをささえる人の位置が90度入れ替わったのだ。同じ動作を、彼はされに二度繰り返した。
 瓶は微動だにしない。さっという動作で、彼だけが体を入れ替えている。動きには緊張感が満ちていた。客席は、歓声よりもどよめきが起きていた。


1994年07月11日

 おっぱいの形は、神秘的なまでに多様であった。
 ゆるやかなスロープを描くもの、つんと尖った頂を、ほこらしげにゆするもの、おおぶりなお椀のような半球型のもの、ひらたく拡散したもの……それぞれに個性があり、表情があるという感じだった。
 パリでは毎年大晦日になると、クレイジー・ホースのショーを生中継している。それならすでに二度観ているので、ショーのあらましはわかっているつもりだった。
 むろん、テレビ映像と生とでは、色彩の鮮鋭度が違う。実際、それは違いすぎるくらいだ。
 裸をみるというのは、本当なら、どこか淫靡な雰囲気がなければならないはずだ。その定義からすれば、このときは裸を観ているという気持ちではなかった。
 踊りが切れている。
 身のこなしがなめらかだ。
 からだのひねり、足をはこぶスピード、リズムに乗ったステップ。表情は、しなやかな動きを誇示するようでもあった。
 いやらしさは、どこかけだるくなければならない。だとすれば、こういうショーは、もっともいやらしさからかけ離れた存在だ。健康的すぎるその身のこなしは、むしろ外面の躍動美で迫ってくる。蠢くものとは別物の世界なのだ。
 ひょっとすると、踊りというのは、裸でするのが自然なのかもしれない。しなやかななかに、激しい動きがまざる。
 シャープだ。
 それを見せつけるのに、無駄な衣裳はいらないのかもしれない。裸になることによって、動きを見せつけられた思いだ。
 首が疲れたので、反対側を眺めてみた。
 そっちを向けば、そこには惚けたような観客の姿があるに決まっている。何百組みの視線が、舞台にそそがれているのがわかった。
 その間には、ギャルソンがやれやれといった表情でたむろしている。ショータイムが始まるまでは、とにかく給仕でてんてこまいだった。ショータイムは、彼らにとっては休憩時間のようなものだ。
 首の位置をもどす。振り向いていたのは、どうやらぼくだけだったようだ。みんな、相変わらず舞台を眺めている。


1994年07月06日

 シャンゼリゼの LIDO で、生まれてはじめて「ぬーどしょう」を観た。
 パリに住んで2年、旅行も含めれば十回以上の滞在経験があるというのに、ちゃばれーとは縁がなかったのである。
 なぜか?
 社費で接待する機会や、招待してくれるひとがいなかったからだ。残念ながら我が家の家計では、自費で夜の華やかな世界に接するだけの余裕がない……って、自慢してどうする。
 先週の木曜日、会社の同僚が遊びにきた。出張の帰りによってくれたのだ。
 たまたま彼の大学時代の先輩がひとり、OECDの日本政府代表で赴任中だという。先輩に電話すると、さっそく「じゃあ、夜のパリでも」ということになった。わはは、それに便乗したのである。
 日本大使館の隣にあるOECD日本政府代表の事務所で待ち合わせ。LIDOの予約時間より早めに行き、まずは新聞を読みだめした。ちょうど新内閣の発足直後だったので、政変のニュースを追っかける。
 八時頃、件の先輩は仕事が一段落したようだ。
 この日は最高気温も30度を越し、パリにしては湿度も高めだった。夜の八時といっても、まだまだ日は高いといってもいい。シャンゼリゼは観光客でごった返していた。
 当然ながら、通行人の肌の露出度も大きいのだ。おっさんは厚着でもよろしい。肌が見えてもうれしくないのでな。
 レセプションで先輩が予約を告げる。蝶ネクタイ姿のマネージャーが、ギャルソンの一人に案内を促した。ちなみにこのときのスタイルはというと、先輩は当然ビジネス・スーツだったが、我が同僚はTシャツによれよれのスラックス、スニーカーであった。あたしゃヌードショウを鑑賞する心構えとして、一応、Yシャツに上着を着ていった。まあ、ネクタイは締めていかなかったが。
 ものの本によると、LIDOはちゃんとした格好でないと入れないそうだ。
 が、我が同僚はそこらのカフェに入るような格好で、特別クレームを付けられることもなかった。もっとも、外務省の一等書記官の連れという特殊事情はあるが。
 でもでも、中をざっとみまわすと、案外と裸婦な、もとい、ラフな格好の客も多かった。
 ギャルソンはほぼ中央の席に案内してくれた。ステージの奥には生バンドが入っていて、演奏にあわせて客が何組かダンスを踊っていた。まだディナー・タイムだったのだ。
 テーブルの上に、席料が表示されていた。
 ひとり460フラン也である。
 学食でならほぼ40食分……という換算は、しても意味がないのでやめる。
 ディナー・タイムなので、これに加えて食事の注文もせにゃならん。一番安いツーリスト・メニューを頼む。コンソメ・スープ、チキン、デザート一品。まるで学食だな、こりゃ。


1994年05月22日

 フランスの大学やGEだと、試験結果はあまねく公開されてしまいますね。誰が何点とったかっていうのが、ぜーんぶつつぬけになってしまう。これ、ぼくは最初戸惑ったけど、ようするに点数評価と人格評価は全く別なのだ、ということだとわかりました。点数がわるけりゃ、原因をつきとめて改善すればいい——フランスではこれだけのことなんですよね、きっと。
 フランスの教育観には、良くも悪くも「階層」の意識が徹底しているように思います。この点、日本のほうがある意味で民主的とさえいえる。まさに「王侯将相いずくんぞ種あらんや」が徹底されているのですから。
 HEC や ESSECなどの経済・商科系グランゼコールは、たいていが商工会議所の設立ですね。授業料は日本の私立大学並みで、だいたい年額6万フランです。学生たちのなかには銀行ローンを組んで、授業料を支払っています。L'Etudiant が発表する初年収Hit Parade(これがフランスの大学・GEランキング)によると、昨年ははじめて ESSECがトップになったそうです。それまでは常に HECが No.1 でした。


 ENA をただのエリート学校と思ってはいけない。フランスでは「ENA 出身者が失業するときは、フランスが滅びるときだ」といわれているくらい。
 一般にグランゼコールの中でも、とくに格が高いところを「トップ6」といいます。ENA、ポリテクニク、ノルマル、HEC、あと2つどこだったかな。なかでも ENAとポリテクニクは別格中の別格です。フランスの指導的政治家・高級官僚は、ほとんどが ENA出身者ですね。ミッテラン、バラデュール、シラク、デスタン、ロカール……。かつてのクレッソン、ベレゴボワは非常に希な非 ENA出身首相でした。実際、バラデュール政権になったとき、「総理の座が ENA出身者に戻った」と言われたくらい。
 ENA の入試を受けるためには、たしかグランゼコールか大学院の卒業資格が必要だったと思います。ESSEC の中にも、ENA 入試対策コースというカリキュラムがありました。
 ポリテクニクと ENAの両方を出ていると、フランスでは「究極のエリート」といわれるそうです。


1994年05月21日

 きのう、F2の報道特集で、
 Qu'est-ce que c'est, OTAKU?
 というルポルタージュがありました。
 コミケの模様まで登場するなど、かなり本格的な取材を重ねたようです。


1994年01月23日

 何度か調査でフランスを訪れたこともありますが、一応名刺交換はやりましたね。ただ、こちらが渡したから向こうも、という雰囲気もあった。日本のように挨拶代わりの名刺交換という習慣はないような気がする。確かポール・ボネさんの「不思議の国ニッポン」にもそう書いてあったと思います。事前にアポを取っているケースなら、手紙などで本人の会社や肩書きはわかるし、単なる通りすがり?程度のひとには名刺なんか渡さないし。
 経験的には、一度交流があってからそれが中断ないし終了し、再び連絡を密にとる可能性がある場合に渡す、という一面があるような気もする。たとえば、ESSEC で集中講義をやった非常勤の講師などに、生徒は名刺をもらったりします。これは卒業後にも交流を希望するからです。このときは、まるで道ばたでティッシュペーパーを配るような感じですね(笑)。
 一説によると、日本人の名刺交換の習慣は、武家社会で鑑札を提示するところからきているそうです。なんにせよ、これは便利な習慣だと思う。
 ドイツで二度ほど独日両面印刷の名刺を貰ったことがあり、二度とも本人は日本語を全然知らない人だった。会って早々ぼくはその意味するところを説明するハメになった。「なんで片面日本語なの?」って聞いたら、「いや、ちょっとした流行さ」なんていうとった。その機関は別に日本と交流があったわけではないんですよねぇ(笑)。


1993年12月22日

 フランスにいてフランス人の友人に送るクリスマス・カードは超簡単。だって、ぼくなんて「謹賀新年」と漢字で書いておしまい。カードは日本から浮世絵のデザインとかのやつを買ってきてもらうから、こういうのが一番受ける。
 で、一番苦労するのが日本に住むフランス人の友人です。これは日本からフランスに送るのと同じですね。近況報告を書いたりとか、時候の挨拶とか、油断していると、文章が全部「je」で始まってしまう。


1993年12月20日

 ミッシェルの話しだと、フランスにはそういう習慣はないそうです。だから、喪中でカードを送って失礼になるという感覚はないとか。


1993年12月15日

 以前、コミュニケーションの先生がいってたことなんですけど、かつての貴族の生活は宵っ張りで、「朝食」の習慣がなかった。朝はずっと寝ていたわけですね。だから、三食のパターンおよび食事のよびかたは、

 dejeuner → 昼食:目覚めの食事
 diner → 夕食:本格的食事
 soupper → 夜食:饗宴のあとの一食

 だったそうです。
 ところが市民社会成立後、とくに産業革命以降には朝に起きて食事をとる習慣があたりまえと考えられるようになった。それで dejeuner 以前を意味することばが必要になったそうです。
 いまではみんな宵っ張りになったから、ふたたび古きよき時代?に戻っているかもしれませんねぇ。江下の友人はだいたい朝はリンゴ一個かじるだけとか、10時ごろにパン・ショコラかクロワッサン一個という例が多かった。


1993年12月13日

 ニューヨークやパリでも適当に誰にでも道を尋ねるというのは、わりと当たり前のように感じるね。むしろ東京みたいな大都市で、日本人にしか道を尋ねないという方が珍奇な現象かもしれない。もともとメトロポリタンっていうのは無国籍なんだから。
 ぼくはわりとアラブ系、スペイン系に見られることが多い。パリに住んでいて、これは交友関係をつくる上で大いに役立っているみたいだな。別に日本人に見えて損することはまったくないけど、アラブ系、ラテン系の人間がたったそれだけのことで興味を抱いてくれるからね。


1993年12月02日

 包装は一般に簡単だと思う。過剰包装と感じたことは、少なくとも今までありませんねー。安いスーパーになると手さげの袋も有料ですから、買い物かごを持って来る客も結構います。デパートなんかは包装コーナーもある。これは日本も同ですね。
 確実に言えることは、パリだと切りつめようと思えばいくらでも切りつめられるってことでしょうね。日本だとその選択幅が案外と狭いような気がします。総合の物価は世間で言うほど差はないと思うけど、このあたりの選択幅の違いが、在日外国人の物価高という感想に繋がっているようにも思う。
 関西人のケチは至極まともな感覚だと思う。まあ、買い物の駆け引きにはちょっと不合理な面も感じないではないけれど。


1993年11月28日

 手を変え品を変え節電、倹約、ケチに勤しむというのは、そもそもだらしない国民だからでしょう。要するに、そういう仕掛けにしないと、みいんな電気は捨てっぱなし、ゴミは散らかし放題になるのに違いない。
 だいたい必要な時にだけつけ、不要なときにちゃんと消すという習慣があれば、ミニュットリもタイマーも必要ないのだ。その方が節約にもなるし。それが仕掛けでやるという発想は、「しょせんわしらにゃそんなことはでけん」という認識がある証拠でしょう。だから、ぼくはフランス人の倹約精神は身勝手の裏返しだと思う。
 電気代は日本より安いですよ。7掛けくらいかな。ガソリンは同じくらいの価格ですから、原子力発電のおかげでしょうか。
 前の学校のトイレットペーパーは、ピンク色の昔の便所紙のようなタイプのロール紙でしたね。今の学校でも同じだった。
 古紙回収率は確か日本がダントツでしょ? 80%くらいだったかな。世界全体だと3ms頭でO%くらいですか?


1993年11月25日

 ミニュットリは一般にフランス人の倹約精神の象徴と言われているけど、要するにこまめに消す人がいなかった、ってことだな。必要な時だけつけるようにすれば、自動消灯は必要ないと思わない?
 重い荷物を運ぶときは腹立つんですよね。ウチなんか4階だから、必ず2階と3階の途中で消えやがる。
 ……と、いま夜パソコンを使っているのだが、ディスプレイ+本体で150W、ハロゲンの間接証明に500W、天井の電球に 75W、パネルヒーターに 1200W、スポットのハロゲンランプに 150W使っている。合計2,075W使っている。夜間電力だからいいのかな、とも思うのだが、ぼくはやっぱりガスヒーターに蛍光灯の方が気分的に好きなのですがな。
 フランスの電力需要ピークは絶対に冬だな。

 前の学校のトイレは、個々の電灯スイッチがタイマーになっておりました。従って、「大」の際は十分タイマーを長くセットしないと、物体落下中に真っ暗になったしまう(経験者談)。動揺すると、ぱんつを汚す結果を招きかねないので、個室内では平静さが必要だ。
 ウチの近辺は治安がいいから、強盗騒ぎはありませんね。でも、十分考えられることではある。
 多くのアパートではコード式のドアを抜けると郵便受けがあり、その先にまた鍵のかかったドアがある。これを開けるためには鍵を使うか、インタホンで呼び出して開けてもらわにゃならない。階段用ミニュットリはその先にあるから、これで一応防犯にしているのでしょうね。
 ミニュットリは「倹約の習慣のない者の現実的倹約精神」って感じがする。


1993年11月08日

「ブルセラ」って略語を知ったのは、ほんの先日、8月のことだった。取材の謝礼で送ってきた「Spa!」にたまたま特集されていたんです(あっ、フランスのぶるせらを取材したんじゃないですからね)。
 想像するに、これは一部コミックから派生したものではないだらふか? 一時期ポルノコミックが国会でも問題になっていましたね? その時ちょっと調べたんですが、問題になったのは女子中学&高校生のセックスを扱った漫画でした。その中で、ブルマ、セーラー服、スクール水着が小道具として扱われていたらしい。その辺りから、「ぶるせら」という言葉やショップが出たのではなかろうか。勿論、これは江下の勝手な推測にすぎません。
 フランスでは日本アニメが暴力、セックス、破壊を強調しすぎると問題視する人がいます。ぼくは「毒がなければ薬はない」という考えなので、青少年の健全育成にはちょっと違和感を感じてしまう(笑)。


1993年11月03日

 去年の5月1日(の前日だったかな?)のこと、学校の帰りにアブデルがセルジーの駅で鈴蘭の花束を急に買いました。
「Le premier jour du mai だからね」と言っていたのでしたが、その時は意味がわからんかった。二束買って、一つは当然パトリシア、もう一つはその時一緒に帰ったクリスティーヌにあげたのでした。
 確かに4月の末頃はあちこちで鈴蘭の花や鉢を売っています。結構高いから去年は買わなかったわ。


1993年10月31日

 フランスの政治家の演説は、概してゆったりとした喋り方が多いような気がします。ひょっとしたら、ENA でそういう喋り方を指導しているのかもしれない。フランスのGEなら有りうることですから。
 シラクの演説を聞き取れるかどうかは、フランス語上級の目安とされていますね。明確な発音、ゆったりとしたリズム、適切な時事用語の使用など、語学学習の教科書的内容なのだそうです。ミッテランになると話しが高尚になりすぎて、専門知識がないと結構苦しいらしい。
 個人的にはロカール元首相の演説が一番聞き取り易く感じます。無論、バラデュール現首相のペースも分かりやすい。よくパロディにされるバラデュールの癖は、「Je pense que」としり上がりに言って、それから次の言葉まで結構間があくことです(笑)。
 口調と言えば、現在の師匠であるローラン女史の喋り方が、典型的なパリ女性のイントネーションです。東京で言えば、「だからぁ〜」や「それでぇ〜」に相当します。いわゆるカマトト喋りってやつです。ラジオの女性アナでも結構そういうイントネーションが多い気もする。


1993年09月09日

 フランスだと第一次世界対戦の記憶の方がナマナマしいような気がします。なにしろ、「このアパートは戦前の建築」なんて言う場合、第一次世界対戦前を意味しますから。
 それにしてもフランスにとって宿敵だったドイツと、ここまで相互依存を深めている現実。したたかというか、現実的というか、はたまた恐怖を繰り返したくない苦肉の策というか、うなってしまいます。特に日韓関係を考えると、複雑な気持ちにならざるをえません。
 日本の戦争責任について、一部に欧米列強の植民地政策との比較で人種的偏見を指摘するジャーナリストや政治家がいます。いろいろな意見はあるでしょうが、私は今更ながら「勝てば官軍、負ければ賊軍」という現実を痛感してしまうのです。良し悪しは別にして、ですが。
 そう言えば、シャンゼリゼに交わる「ルーズベルト通り」だって、第二次大戦のパリ解放を記念したものですよね。


1993年09月08日

 今日、ひさびさにセルジーの学校に行ってみました。既にレターボックスも新入生用に替わっていたため、完全にOB気分です。学長に会ったところ、ディプロム授与式は11月3日だとか。まあ、ヘボをやらかせば、当然縁のない式になるわけですが。
 11月3日は日本の祝日で、121代天皇の誕生日だという話しをしたら、すかさず歴代天皇の誕生日を全て祝日にしているのか?と突っ込まれてしまった。
 一瞬考えてから、初代天皇の即位日、121代及び123代天皇の誕生日のみを祝日にしていると答えました。なまじこんなことを答えると、なんでその代だけと突っ込まれるに決まっている。考えてみると、神武天皇即位には一応建国という名目が立つし、昭和天皇の誕生日も長らく祝日だったので、その習慣を残したと尤もらしい口実がつく。でも、明治天皇の誕生日がそのまま祝日として残った理由がとっさに浮かばず、この場は「一種の革命記念日ですよ」とごまかすしかなかった。
 実は日本の祝日は案外と説明しずらいのです。春分・秋分などはお彼岸と結びつくので楽なのですが、東京オリンピック開会の日が国民的祝日になったということも、その歴史的意味を説明しないといけない。敬老の日とか勤労感謝の日になると、自分自身が由来を知らないので、ごまかしようがない。総務庁当たりから、何か説明資料でも出ているのだらふか。


1993年08月30日

 RERのAuber駅やChatelet駅では、時折あのディズニーの風船を持った子供連れ家族の姿を見かけます。ただし、会話を耳にすると、殆どがスペイン語。
 実際、フランスでは20才前後の連中のデートコースには至ってない。パリ市民の足も遠いようです。おかげでパリ市民でることを証明すれば割引料金で入場できるのですよね。証明するためには電気料金の請求書を提示すればよいのだけれど、そんなのを持参ていうのもなんか無粋ですねぇ。
 アメリカ人がいみじくも、「パリとディズニーランドというのはイメージが合わない」とつぶやいていました。ブタペストかバルセロナあたりにあれば、相当状況は違っていたのではないだらふか。
 今の為替水準だと、入場料250Frsは日本と同じくらいでない?そうなると平均年収は日本人の方が5割くらい多いから、彼らにとって相当高いと感じるでしょうね。
 クラスの連中の中から「ディズニーに行こう」と言う声は、ついぞ聞かなかったと今更ながら思いだしてしまった。
 もっとも、新しいものはすべからく評判の悪いフランスのこと、30年もすればディズニーもしっかり観光名所になるのではないだらふか?問題はそれまで続くかどうか。
 強いマルクや円を持った客ばかりなら、それこそ万々歳でない?


1993年07月27日

 フランスで生活していると、あると思っていたのになかったり、反対に考えもしなかったものがさりげなく売っていたりします。日常の生活のままに、思い付くままにリストアップしてみませう。無論、これは私及び私のカミさんの経験に基づくものですから、「いや、あそこにあった!」というご意見もお寄せ下され。

★ありそうで(ナカナカ)ないもの
 便座カバー(日本から送って貰いました)
 80以下のAカップブラ(痩身の女性、要チェック)
 無料のポケットティッシュ(これはなさそうでないもの?)
 ホットプレート(電気コンロはいろいろあるんですがねぇ)

★なさそうであるもの
 グリコポッキー(商品名MIKADOです)
 思い付いたら(2)をアップします。乞コメント!


1993年07月21日

 私がアテネに通っていたころ、中級まで習っていたルールム先生という方は丁寧にnomにMonsieur/Madame/Mademoiselle を付けて呼んでおりました。ところが、上級になってから習ったペレ氏は専らPrenomで、たまにCitoyen なんて言い方もしておりましたね。生徒が自分を呼ぶときもMonsieur PERRET ではなくて、Jean-BatisteまたはCitoyen Jean-Batisteと呼ばせていました。
 学校でも教師が生徒の名前を覚えた後は、たいていPrenomで呼ぶようです。反対に生徒が教師を呼ぶときは結構ケースバイケースで、授業時間以外で例えばかなりくつろいだ状態だとPrenomです。一応vousvoyer ですが。そして普段生徒同士の会話で教師の名前を出す時などは、面識のある教師だとPrenomで引用し、本で知っている程度だとnom で引合に出す。名前を覚えるという行動パターンにしても、面識が有って覚える場合はPrenomを覚えるというデフォルトがあるのかもしれないなどと思いました。
 日本の特に男社会だとPrenomを使う機会は非常に少ないですね。


1993年07月17日

 ものわかり、と言えば、よくものの本にヨーロッパやイスラム圏の国では宗教について質問されることが多い、そのような場合、嘘でも仏教とか儒教とか応えた方が良い、などと書いてあります。
 確かに、ごく表面的な方便としては正しいかもしれない。何か宗教を持っているというのは、人によっては人間として当然のことかもしれませんから。ただ、私メは素直に「*教」と応えるのがシャクなので、必ず「そういう質問をすること自体、日本を全く知らない証拠だ!」と切り返すようにしたのです。必ず説明を求められるわけですけれど、その際は「神の存在を信じるのと宗教は別問題だ」と言って、「神道の現人神とされていた天皇が昔は出家して仏教の坊さんになった」例を示すわけです。
 フランス人というのはもともとが会話の好きな人が多いので、素直に*教と応えるよりもこういうヒネた切り返しの方が面白いと思うようです。これで必ずひとしきりの話題となりますから。


 どこの国にも**人社会は存在するもの。中国人など世界中にコロニーを根付かせているし、日本のアメリカ人社会も実はかなり強固なネットワークがある。パリでもちゃんとアメリカ人向けのOVNIのようなミニコミ誌がある。
 日本人が日本料理屋でたむろして悪いことなど全然ないし、それを悪しざまに言うフランス人を私はいまのところ知らない。異国にあって母国の社会が存在するというのは、何とも心やすまるものです。むしろ、一部の日本人が勝手にそれを非難しているだけのような気がしてしまう。日本人でありながら自らの同胞をいわれもなく非難することが一番の問題でしょう。こういう人間を国際派ではなく、単なる無国籍の根無し草と言うべきでしょう。
 フランス語の会話で一番簡単な言葉は何か? これは「ウィ」でございます。何を馬鹿な、とおっしゃる方は一度試してみると良い。疲れて来ると必ずこれを連発しているはずですから。
「ウィ」というのは議論の終止符になってしまうのです。極端な話し、ウィの連発はそれだけで会話をぶちこわしてしまうことすらある。絶対に「ウィ」と言わないのは、会話力をつける上でも重要なポイントですね。そうすると必ず「Voila!」が増えてしまうけれど....。


1993年06月28日

商品・サービス"Boulangerie et Patisserie","Poisonnerie", "Boucherie", "Chemiserie","Blanchisserie", "Papeterie", "Liberarie"等々
店の名称スーパーなら"Champion", "Franprix", "Monoprix", "ED"等々
Grande Surpaceなら"CarreFour", "Euromarche"等々
専門店なら"DARTY", "fnac", "CELIO", "C&A"等々
レストラン多種雑多(無論、店の名称を表示)
カフェidem

 看板といえばこんなものでしょうか。因みにそのまま「Kanban」というと、Just in Time生産管理システム「Kanban Systeme」を指すこともあります。これはトヨタの凄さですね。レギュラシオン学派はそのまま「トヨティズム」と呼んでいます。
 パリの看板は街の色相を乱すことがないよう義務づけられています。その点良く言えば落ち着きがあってシックですが、悪く言うと分かりずらい。実は医者や歯医者は全く看板を出しておりません。門の脇のインタフォンの所に小さく札がついているだけなのです。アパートの住民の一人がたまたま医者をやっている、そんな感じですね。私のアパートの隣りと裏側に、合計3件の医者が開業しています。
 医者に限らずパリでは映画館もごく普通のアパートの中にあったりします。我家の向三軒両隣を見ますと、それぞれ地階にカフェ、ブラッスリー、レストラン、雑貨屋、そうざい屋そして映画館。1階以上はふつーの住民の住むアパートですから、典型的職住混在環境ですね。
 静かな住宅街を思わせるアパート群の一角に突然映画の看板が出てくる、これもパリらしさの一つでしょう。
 私が一番気に言っている看板は、モンマルトル広場に向かう途中にある絵葉書屋「Chat Noir」でございます。看板が絵になるのはやはりモンマルトル。

1993年06月04日

 日本では3月末に週刊誌が発表(?)する大学合格者ランキングが、善し悪しは別にして高校のレベルを示す指標になっております。フランスの場合ですと、リセではなく大学・GEがランキング対象になっております。
 今日クラスの者が持ってきた雑誌に92年度のランキングが載っておりました。何を以て指標にするかというと、これが実に生々しいことに、就職先の初年度平均年収なのです。例えば、工学系の92年度トップはENPC(通称ポン・エ・ショセ:土木学校)で平均22万Frs、91年度トップのEcole Polytechniqueは4位に転落したそうです。商業系ですと、長らくトップを維持していたHEC が、初めてその座をESSECに譲ったとか。
 トップクラスのGEですと、だいたい初年収19万から22万Frs 、それに対し、大学卒はDEA-DESSでも16万Frs程度ですから、GE優位は圧倒的です。
 この資料はリセの生徒が学校を志願する際の有力な情報だそうです。この他にも、出身校別大企業役員数ランキングなんかも時々発表されます。商業系ですと、ヨーロッパ・ランキングなんてのもあります。
 少なくとも欧米では「高等教育は投資の一つ」という考えが強いため、学校のランキングは行われて当然と思われているように感じられます。果してそれが本当に必要なのか必要悪なのかは分かりませんが。尤もこれはあくまでも技術系、商業系の場合であり、科学系は自ずと異なるようです(それでも教授の発表論文数や論文引用数を指標としたランキングが時々発表されています)。


 若い世代ですと、テープを聞いたりして「正しい」発音に矯正するそうです。だから、最高齢に属する世代以外では、もはや方言も失われつつあるとか。我が親愛なるマリー・ピエール(コルシカ島の家系で本人はニース出身)もパリ風の発音を練習したとか。ただ、マルセイユ近辺はやはり独特のアクセントが強く残っているようです。これは関西出身の学生が東京に来ても関西便を維持するのと同じでせうか(悪い例だ )。
 私は学校ではフランス語キーボード、家では ASCII配置を使うという2重生活(?)ですが、結構苦痛が多いですね。学校でキーボードに接する時間が多い時は、それに慣れては大変(?)なので、矯正のために家でなるべく多くのテキストを打つようにしています。ですから、今日なども学校で散々キーボードを使っていたわけです。


1993年05月29日

 プチ・ラルースによりますと、プロヴァンス地方は元々古代ギリシャの植民地であり、その後ローマ帝国の属州となって小ピピンの代にフランク王国領となった由です。地理的にはコルシカ島とともにイタリアの影響が強いところです。とはいえ、18世紀までのヨーロッパは「国家」という概念が今日とは大幅に異なっていたため、「イタリアの影響」という表現は本当のところ正確ではありませんが...。中心はAix-en-Provenceとなっておりました。
 ポジション的には薩摩というより琉球やアイヌに近いのではないでせうか? この地方の歴史はフランク王国、神聖ローマ帝国、さらにイタリア統一戦争もからんで、えらく複雑ですね。


 私メの母親がCarigraphieをやっておりまして、パリに遊びに来る際、色紙を何枚かみやげに書いて来て貰ったのです。今日、クラスで友人達に配ったのですが、想像を遥かに越えた受け方でした。絶叫に近い感じで「Genial!」の連発でした。


1993年05月23日

 教授からこの本をゼミで報告してくれないかと突然言われ、ひいひい言いながら読んでいるところです。まだ最後まで読み終わってはいないのですが、途中で悲しくなるやら腹が立やらで、どう感情を抑えて報告するか悩んでしまっていることろです。
 前々から感じていたことではありますが、フランスの日本、特に日本経済研究はアメリカに比べて10年から20年遅れているといえましょう。この本にしても、やたらと「総合商社」の脅威を強調したり、通産省の行政指導を保護主義の元凶のように非難しているのです。10年前のアメリカによる対日批判が、そのまま繰り返されていると見てよいでしょう。それに、この本は日本をいろいろと非難し、フランス、そしてヨーロッパを正当化している割に、統計データの比較もないし、たまに引用される数字も間違いだらけ。マスコミのセンセーショナリズムにそのまま便乗し、自己正当化だけを試みた内容と言っていいような気がします。例えばマイケル・ポーターの著作などと比較して、あまりの内容のなさに唖然としてしまいます。正直なところ、このような不見識な著者達が知日派として通用しているとしたら、これはむしろフランスにとって不幸なことでしょう。
 最近こそフランスでも日本を研究しようという機運が盛り上がっているようですが、依然としてそれは極く一部にすぎません。しかし、フランスが世界4位の経済「大国」と自慢したところで、日米と比べれば周回遅れのトップにすぎません。日本にいると日本の社会問題がいかにも深刻で、とても「経済大国」などと自慢できる状態ではないと思われがちです。しかし、我々はまだ周回遅れの国に対しても学ぼうとする姿勢があるだけ「まし」だと思うのです。かつて世界を制したオランダが、ポルトガルが、そしてスペインが、現在完全に黄昏ている姿を私は単に本の上の出来事としか感じなかったのですが、この本を読んでいるうちに、イギリスやそしてフランスの「衰亡」が何となく実感できるような気がしてしまいました。EC統合の夢、なんだかそれは消え絶える直前の蝋燭の炎ではないかという気さえするのです...。


1993年05月11日

 今日は何やら学校でお祭り騒ぎがあった。ホールに仮設土俵(?)を作り、TVでよく見かけるだぼだぼの真綿を着込んで相撲取の格好になって組み合ったり、そうかと思うと、座布団ほどもあるグローブをはめてボクシングをしたり...。でもって、その横で何やら配っていた。何かと思ったらこれがコンドーム。ちゃんと使用説明書付きであった。これをカリムというエジプト人学生が大量にもらってきて、教室で皆に配っていた。「説明書はいらないよね?」とか、「使い方教えてあげようか?」などと聞きながら。
 包の中を見たら、まず「厚さ0.05mm」というところが目に入った。横にいたXとの会話。

 私:日本製だと厚さは0.03mmだぞ。
 X:なに?もっと薄いのか? それは危ないだろう。
 私:いや、1cm2あたり1トンの荷重に耐えられる。工業規格だからね。
 X:比べてみたいから、ストックがあれば明日持ってきてくれ!
 私:Oh, putain!

 これ、授業中に普通の声の大きさで交わされた会話であった。


1993年05月06日

 昨日は午前中ゼミの発表があった。指導教授の趣味もあって、発表にはプレゼン・ソフトを使うことになっている。従って、パソコンに液晶の透過ディスプレイをつなぎOHPに乗せ、PowerPointとかPersuationを使う。この日、教授のちょっとしたミスで液晶を使うことが出来なかった。仕方ないので、ディスプレイを1台持ってきて、昔の視聴覚教室のように、皆で画面を眺めることとなった。
 この教授、発表中にすぐ「喋りたがる」癖がある。すぐに「Deux Seconde!」と言ってその実15分位喋るまくるのである。ジェスチャーも結構大袈裟で、それなりに笑えるのだが、やはり時々うんざりすることがある。この日は普段になく「Deux Seconde!」多発であった。ディスプレイの向こうで、手を振り動きまわりのパフォーマンスである。退屈していたピエールが、プレゼン・ソフトのデモ用画面をいじり始めた。色々な場面を背景にして、そこに「Il est ...」というコメントが1行ずつついていた。
 ある画面に達すると、思わず全員で大爆笑してしまった。画面に表示されていた一言は、Il est babarde.


1993年04月27日

 今日は級友の一人、ピエール・マルタンの誕生日であった。トマ、マリー・ピエールといった連中が数日前から何やらプレゼントを用意していた。今日になってそれが分かったのだが、なんとピエールが生まれた年月日のル・モンドであった。
 日本でもよく生まれた日の新聞のコピーを誕生日にとったりということはあるが、実物をプレゼントするところは始めて見た。彼らは一体どこで手に入れたのだろう。無論、ピエールは大喜びであった。
 1968年4月26日には何があっただろうか? 昭和で言えば43年、3億円事件や東大紛争は次の年だし...。


1993年04月19日

 私メは息抜きにいつでも旅行できる職に就くため、今はストックに励んでいるといえましょう。フランスでもバカンス・シーズン以外に自由に休みが取れるわけではないそうですから、サラリーマンである限り、犠牲にしなければならないことの一つなのでしょうね。パトリシアの話だと、フランスでも上長の命令で有給を取り消されることは決して珍しくはないそうです。「バカンス大国フランス」というのは結構誇張されたイメージなのではないかという気が段々としてまいりました。
 私はフランス行を決める時、「会社の暖簾」というものを考えずにはいられませんでした。名刺の中から社名を取ったら何が残るか? 自分の名前だけの名刺なんて誰も見向きもしてくれないだろう、そうなれば会社の指令には否応なく従わなければならないだろう、そんな恐怖に駆られたものです。
 フランスのエリートと呼ばれる連中は、会社の暖簾ではなく個人の交友関係を拠り所としているように思われます。極端な話し、会社がコケても個人のツテで新たな食いぶちを確保できる構造だと思うのです。だから、個人間のツテを広げたり維持することに、学生時代から熱心なのではないかと思うのです。
 いずれにしても「一人では生きては行けない」ということに変わりなく、どちらを選ぶかは趣味の問題だと思うのです。人付き合いも苦手な完全モラトリアムおじんである私メはできればどちらもパスしたいところなのですが、まあ、取敢ずはフランス式にツテ依存の方が気楽かな、などと思っています。


1993年04月08日

 オルセー美術館に展示してあるゴッホの「アルルの家」は、本当なら上野で常設されていたはずなのはご存じ?川崎コレクションの一つとなっていたはずなのですよね。戦争で輸送差し止めになったコレクションの中で、返還されなかった4作品のうちの一つが「アルルの家」。おかげで(?)クラスでゴッホの話題がでる度に、「フランス政府はアルルの家を盗んだ!」と主張して周囲の顰蹙を買うことになってしまう。
 まあ、過去をほじくり出したら、大英美術館もルーブルも盗品の展示場ということになってしまう。尤も以前にODAの話題が出たとき、誰かがフランスの援助率の高さを自慢したので、私は「ナポレオン時代にあれだけアラブから略奪しまくったんだから、その見返りとして当然のことだな」と毒づいた事がある。そしたら結構アルジェリア人やエジプト人達には受けていたから、彼らがルーブルに行くときなど、案外複雑な気持ちがあるかも知れないと感じてしまった。


1993年03月25日

 個人的に思うのは、キワものはやはりキワものでしかない、ということであります。ただ、何がキワもので何が新しいパラダイムなのかは非凡なる人のみが認識できることなのでしょう。「伝統」も「本流」も始めは皆アバンギャルドなはず。仏教だってキリスト教だって、バラモンやユダヤにしてみたらキワい新興宗教だったわけですから。
 ところでところで、ジャンルを越えた人の集まりというのは、かつてパリでこそ演じられた展覧会ですね。世界的に見れば決して大都会とはいえないパリが、確かに世界の「都」の一つという顔を持ちえたのは、ひとえにこの「展覧会」の賜物だと思うのです。かつて「国際都市とは、他の国の人がやって来て世界に情報を発信する都市のことである」という話しを聞いたことがあります。東京がまだ今一歩欠けている点がここにあると言ってよいでしょう。
 実は私もスケールは小さいながら、様々なジャンルの人と交流することが結構ありました。ただ、話題が決まって「猥談」なのです。とはいえ、医学、動物学、心理学、社会学、民族学、言語学等々の立場から徹底的に「猥談」に熱中しますと、言い訳ではないのですが、かなりマジな話ができる。実際、笑はほとんど出ませんから。まあ猥談ヲタクなどはちと不気味かもしれません。
 落ちた話を何とかフォローしますと、アメリカ科学の黄金時代、プリンストン高級数学研究所にそのような雰囲気があったそうです。実際、アインシュタインとレヴィ・チビタの雑談を聞くために、昼の食堂は超満員だったとか。割と最近ではゼロックスのPARCがそうだったといいますね。やはり、エポックメイキングな事をやらかしたろころというのは、特殊な場の作用があるのでしょうね。


1993年01月25日

 ヘップバーンの魅力は、老け役でも醸し出される可愛らしさだと私も思う。非常に汚い表現で恐縮なのですが、私は彼女がウ*コをしている場面を想像できない。一種の妖精的な魅力を感じたのだと思います。(この辺はサユリストに通じるものがあるかもしれない)スピルバーグの映画で随分と糖の立った妖精を演じていましたね。
 思えば年齢に関係なく可愛らしさを維持するなんて、一種の天才かもしれませんね。バーグマンや、あるいはモローの齡それぞれの時期に現われる魅力を理想としています。若いときは若さ故の魅力、年輪を重ねてからはそれに応じた渋さ、ちょうど世阿弥の「風姿花伝」の世界ですね。ところがヘップバーンには「可愛らしさ」という普遍的な魅力が最後まであったような気がするのです。
 頭の中で「シャレード」を奏でつつ....。


1993年01月23日

 オードリ・ヘップバーンって、亡くなられたのですね。しばし黙祷。
 実は昨夜「シャレード」の話題をアップした後Figaroをパラパラと眺めていたら、「Adieu "My Fair Lady"」というタイトルで半面さいた追悼記事が掲載されていました。63才ですか....。まだまだなのに。
 小生、特に「ティファニーで朝食を」のヘップバーンが大好きでありまして、5th Av. のティファニーの前に始めて言った時は、自然と「ムーンリバー」が頭の中に流れて来ました。「シャレード」もパリを舞台にした映画だったし、「おしゃれ泥棒」もそうでしたね。ううん、また悲しくなってきた。


1993年01月18日

 古典といふからには時間を越えた輝きを持つものでありましょう。ショーペンハウアー曰く、「ベストセラーは流れ星。世間があれは何だ、と思っているうちに消えてしまう。流行の作品は惑星。しばしば他の星を圧して輝くが、所詮まがいもので、太陽が消えればそれも消える。古典とは恒星。その輝きは永遠である。」と。
 技法的なものに古典の要素を求めるのは、基本的に無理のある考えかただと思う。また、歴史的あるいは記念碑的作品と古典とは厳密に分ける必要があると思う。技法のみに注目するのなら、それはやはり記念碑的と呼ぶべきでしょう。かつてサイレントからトーキに移ったとき、トーキによる最初のミュージカル映画が確かアカデミー賞を受賞しておりましたが、それもエポックメイキングな技法の賜物でありましょう。
 ところで、私は結構SFが好きなのですが、11才の時にエドモンド・ハミルトン「時果つるところ」を読んだ感動が未だに忘れられません。現在に至るまで年に1度は読み返しており、既に30回以上読んでいるというのにその都度新たな感動があります。映画でも本でも人それぞれにその人の古典があると言ってよいでしょう。


1993年01月13日

 私の乏しい経験では、ですが、ごく一般の自己紹介で「Je suis Monsieur ***」はないと思いますよ。少なくともあたしは唯の一度も経験ありません。むろん、友人以外に会社の重役、研究所の所長、大学の教授等々を含めてのことですが。
 ただし、ある状況によってはそうするケースがあるようです。

(1)Docteur XXX
 ヨーロッパはアメリカや日本より「博士」のご威光が強いので、「Je suisDocteur ***.」というケースはありました。

(2)呼び出しに応えるとき
 これはヴォワ=エクスプレスの例と同じだと思いますが、アナウンスで呼び出しがあって出頭した時は「Je suis Monsieur ***」とする例もあるようですね。私は2度ほどロワシーで目撃しました。

(3)電話口で
 こちらから「Monsieur ***, SVP?」と依頼したとき、相手が等の本人だと「Je suis Monsieur ***」と応えるケースもあるようです。今の大家さんに電話した時がそうでした。

 以上、全て私の僅かな経験によるものですので、あとはいとうさん、たかのさんはじめ経験豊富な方々のコメントに頼りたいと思います。まあ、先方から「Monsieur *** ?」と問われない限り、自ら進んで「Monsieur」を付けることはないのではないかな、と思います。
 学校では、教授間、教授とベテラン秘書間は皆「tu」でございます。さすがに生徒が「tu」で呼びかけることはありませんが、時々生徒を「tu」で呼ぶ教授もおります。


1993年01月11日

 私の場合、友人間だと握手しつつ(女性であればちゅっ!(*^_^*))
 私 :Masa
 相手:****
 で終わりです。ちゃんとした自己紹介の時は、
 Je m'appelle ESHITA, Masayuki ESHITA. Et on m'appelle Masa (Massa).
 としております。なんちゅうか、現在周辺はほとんど年下で、名字を呼び捨てにされる方が何となく抵抗を感じるんです。Masaだとあだ名みたいなものなので、かえって抵抗がない。完全に個人的な理由です。フランス人の間でもMasaは覚え易いし発音し易いというので、結構重宝しています。


1993年01月10日

 寒くないのでしょうか? ここ2、3日こそ暖かいといふものの、この時期パリは最高気温がマイナスでも全然おかしくないはず。なのに結構ミニスカートで闊歩してらっしゃる女性が案外多い。むろん、ストッキングをきっちりはいていらっしゃるのだが、果たして冷たくないのだらうか? 小生、実は学生時代、コンパにて短パンに網タイツといふ姿でローラースケートはいて騒ぎまくったことがあるため、あのてのものが案外暖かいといふことは十分に知っているつもりである。しかし、20度以上の室内と氷点下の屋外とでは自ずと事情も違うってぇものです。まあ、個人的にはパリでミニスカート姿が見られるというのは、憂鬱な冬のささやかな「華」ではあると思うのでありますが...。


 侵略を度々受けた群小国の人達は、違う文化を寛容に受け入れるというよりも、受け入れざるを得なかったというむしろ悲しい歴史があるように思うのです。ついでながら、バイリンガルの国や民族を我々は羨みがちであるが、国際関係論の立場から見ると、それらの国は常にパワーポリティクスに翻弄された歴史を持つ。我々はむしろバイリンガルでないことを幸せに思っても良い位なのです。むろん、これは一側面からの見方でありますが。
 自立可能な経済規模を擁する国は、多かれ少なかれ閉鎖的側面というか唯我独尊的傾向があるのも事実でしょう。日本もその例外でない。「自立」という点で際だっているのがアメリカとフランス、日本は歴史的には特定の国に極度に依存する時期と閉鎖の時期を交互に持ち、依存している国の文化には寛容どころか無節操なまでに受け入れる傾向がある。以上の点は印象だけでなく、経済現象がかなり裏付けております。
 この視点から興味深いのがECの動き。さしものフランスもこと技術や経済では自信がゆらいでいる。人口数千万という規模では今の技術の領域をカバーしきれないし、市場としてもスケールメリットを得られる規模ではない。だからECという規模で自立を目指そうとするわけでしょう。ところが生活面ではむしろ細かいレベルでの民族自立の傾向が高まっておりますから、国家の概念をどう再構築するかが問われるわけです。
 思うに、私が結構フランス語を続けているのも、一部フランス人の唯我独尊を嘲笑するためかもしれない。また、歴史や文化に対する興味も、結局は文化的アイデンティティを求める行動だと思うのです。自文化に対する誇りがなければ自文化を尊重する気持ちも生まれない、しからば異文化を尊重する精神も生まれないのではないか、と。私はフランスに来て結構アラブ系の友人が多いのですが、彼らはやはり自国の文化に誇りを持たない人間は信用できないと言っていた。まあ、少ないサンプルでありますが。歴史学者はアラブ人は異文化に対し極めて寛容な民族だと認めておりますが、その背景も彼らが自分達の文化に誇りを持つが故でありましょう。
 アメリカ人とフランス人の中心意識は微妙に異なるのではないかと思う。まあ、私の交友範囲も限られているわけですが、フランス人は結構異文化の歴史的背景なり価値を認め、その上で「でも1番はフランスだね、フフン」とう感じだと思うのです。だから、「おかしい」と感じても、まあそれが世の中だと認め、否定はしない。その点アメリカ人は「アメリカは1番だ! 何で皆アメリカみたいにしないの?」。フランス人の方が擦れていて、アメリカ人の方が良く言えば真摯、悪く言えば地五郎のおせっかいという感じでは? アメリカのかような側面に対する批判は、アラブ人と話をすると出てくるわ出てくるわ。何にせよ、盲目的愛国者が徹底した唯我独尊であることは、全くもって万国共通でありましょうが。


1993年01月07日

 今日聞いたところによりますと、フランスでも新年の誓いは存在するそうですよ。英語と同じ「resolution」を使うそうで、
 bonne resolutionと言うのださふです。結構、禁煙の誓いを立てる人が多いとか。でも、達成率が低いというのは C'est la vie.でせうね。
 そういえば、今日の授業の教授は実にブルターニュの近くに住んでいて、パリまでTGVで1時間半、パリからセルジーまで1時間、徒歩を入れて合計片道3時間かけて通っているそうです。むろん毎日ではありませんが。帰りにみんなが、
 Bon retour!と言っておりましたから、何でもbon をつけりゃあいいのかな、何て思ってしまう。


1993年01月06日

 私もフランスで生活するに当たって、当然日本のことをあれこれ聞かれるのではないかと予想しましたし、実際そうでした。今までのところよく質問される内容は、多分大方の予想通りであると思うのですが、経済、技術、歴史、宗教・哲学などです。日本の政治については殆ど話題に上ったことがない。
 経済、技術はさておき、歴史の話題などは、フランスやヨーロッパの重要エポックの時、日本はどうであったか、といった話題は結構受けます。ローマ帝国時代、シャルル・マーニュの時代、百年戦争の頃、大革命当時などなど。後は天皇家の歴史なども日本独自のものなので、結構話のタネになります。今上天皇が第何代かご存じですか?
 宗教・哲学について、フランスは世界の中でも東洋思想の研究に熱心な国です。そのせいか、仏教や禅、それに老荘思想などに関連した話題が、インテリ層と言われる人との会話ではよく出てきます。学生でも割と感心の深い人が多いようです。
 何にせよ、フランス人は日本を「文化のある国」と見てくれているようなので、この類のネタはあるにこしたことはない。個人的には、この辺の認識がフランス人の対米感情と対日感情の違いではないかと思っています。


1992年12月17日

 別の本にローマの暦のことが書いてありました。それによると、元々ローマ共和国では太陰暦が用いられ、一年は10ヶ月だったそうです。冬は数えなかったといいますから、太古から「イタちゃん」してたわけですね。
 その後12ヶ月になったそうですが、31日月が4回、29日月が7回、28日月が1回で、1年は355 日でした。そのため、時々潤月が設けられたそうです。
 ユリウス暦では1年 365日となりました。12月がDECA(10)なのも1年10ヶ月の名残ではないかと思います。カエサルとアウグストゥスの2人で帳尻を合わせたわけですね。
 革命暦が出てきたついでに余談を一つ。
 ナポレオンは何と円周を360度から400度に変更してしまいました。まあ、これはメートル法の制定とも関係あります。ただし、400は360に比べて約数が少ないため、結構不便なことがあります。実際にこんな笑話もある。
「ナポレオンが三帝海戦で敗れたのは、他国が「敵艦左30度!」と一言で命令できるところを、ナポレオン軍は「敵艦左33.33333333.....」といい続けなければならなかっためだ。」


1992年12月09日

 基本は「口から出るものはエチケット違反」だそうですから、尻からでるものも一応はエチケット違反の内に入るのでしょう。
 が、しかし、そこは融通性抜群(?)のラテン民族、いろいろ「寛大」な部分が多いのではないかと察しています。ただ、このやうな問題は相当個人差があるし、当然のことながらそこいらじゅうでコキまくって構わないということはないでしょう。これは私の想像ですが、無理に我慢しなければならないほど深刻なタブーではないという気がします。前回のアップはその程度の意味であったのですが、表現が未熟でした。結構無神経であるといっても、そこはやはり程度の問題がありますね。反省。□\(-_-;)
 それが「失礼」に当たるのか、「恥」になるのか、それとも粗忽な「不始末」ですまされるのかは、いずれ級友と議論してみたいと思います。
 ところで、「エチケット」なる意味の元は、宮殿の庭での野グソ禁止の「エチケット(立て札)」から来ているのでしたよね?私はベルサイユだのフォンテーヌブローだの、宮殿を訪れる度にこのことを思いだしてしまう。
 屁は兎も角として、鼻みずは実に皆さん勢いよくチンしております。


1992年11月23日

 3つの名前の複合、ちとまだ完全には調べ終わっていないのですが、先日、OVNI で次のような記事が載っているのを見かけました。
「出生児の名前が自由に」
 これによれば、戸籍法の改正によって、特に卑猥なものでなければ、どんな名前でも付けて良くなったのだそうです。逆に言えば、これまでは聖人・歴史的人物名しか認められていなかった由。ううむ、これは調べる価値あり。
 詳しくは「OVNI (no.300, 15/nov)」のP3に載っています。
(注)「OVNI」とはパリの日本人及び東京のフランス人向けに月2回発行されている無料の新聞。日仏学院やフランス系銀行等で入手できます。


1992年11月14日

 今日、さっそく本人に聞いてみました。彼女の解説によれば、祖父母のpreromを組み合わせたのだそうです。このように祖父母のprenomを組み合わせるケースは比較的多いそうで、祖母のを前にすれば女性名、逆にすれば男性名になります。当然、「Pierre-Marie」という男性がいてもおかしくないそうです。
 そう言えば、「Jean-Marie」なんてprenomはよく見ませんか?
(蛇足)さすがに、「Marie-Marie」や「Pierre-Pierre」は普通はない。


1992年11月13日

 女性同士のアンブラセは極めて日常的光景ですが、男同士というのは確かに見たことありませんね。 自然に目が避けているのかもしれない。ご存じのようにイスラム世界やロシア人では存在しますが。フランスでは専ら握手です。
 ところでアンブラセについて追加情報。今日コミュニケーションの先生にしつこく質問してみました。
 回数については、地方、社会的地位、年齢がある程度関係するそうです。都会よりも地方の方が多く、年配の人は意外にも1回か2回という傾向が強いそうです。右からするか左からするかは、やはりきまりというより心理的に始めやすい方向からだそうです。相手の右頬に、というのが一般的ではないかとのことでした。
 あと面白い話が一つ。2、4回が一般的と言われているのは、ちょうど次のようなリズムがあるからだそうですよ。
 4回:Bon (ちゅっ) jour, (ちゅっ) ca va (ちゅっ) bien (ちゅっ)!
 2回:Salut ! (ちゅっ) Ca va! (ちゅっ)
 今度、Christine-Marie, Marie-Pierre, Pierre-Martinの3角関係(?)を解明しようと思っています。


1992年10月25日

 さてそろそろ寝ようと思ったら、突然、明日が後輩の結婚式であることを思い出し、急ぎメッセージを作り始めた。そして、ファックスでそれを送っているうち、TF1の深夜スポーツ番組が始まった。
 F1の好きな方ならご存じの通り、今日は日本GPである。既に全てのタイトルが決まってしまったあとなので、さぞやクールな扱いかと思ったら、かなりまとまった特集をやっているのに驚かされた。今シーズンは地元ルノーのエンジンを搭載したチームが圧倒的に強いシーズンだったので、TF1の放送などは実際かなり舞い上がっていた感があった。今度の日本GPはいわば消化ゲームなのにこの注目は、やはりホンダ最後の地元レースであるためであろう。ホンダの地元でたたきのめし、引導を渡してやろう...いやいや意地悪な推測はしますまい。フランス人は確かにホンダには敬意を抱いているのだから。
 番組では冒頭日本のことを「日出ずる国−Soleil levant」と表現していた。私の感覚だと、フランス人はこの言い方を結構気に入っているような気がする。その後は日本でのF1フィーバーぶり、とりわけセナの人気がもの凄いこと、当日は約1,000万人がテレビ中継を見るであろうことなどがかなり詳細にレポートされていた。
 さて、ヨーロッパ・ラウンドではパリからせっせと速報を送っていたが、今度はこちらが知らせて貰う立場となった。明日の朝、寝床から抜け出すころには結果が判明しているのであろう。


1992年10月16日

 確かに恋愛と文学(そして映画もかな?)はある年代に達しないと分からないこともあれば、逆に若いときでないと分からないものがあるような気がしますね。無論、その人の経験の蓄積によるのでしょうが。
 私にとって、30過ぎで面白さが多少なりとも分かるようになったのは「源氏物語」でした。10代、20代と全く無味乾燥とした世界でしかなかったものが、なぜか一昨年読んでみたら微妙な人間模様が実に鮮やかに描かれていることを発見し、正直言って愕然としました。紫の上を失った時の光源氏の悲しみは、恐らく20代の頃では理解できなかったと思うのです。
 反対に、20代にあれほど読み漁ったヘッセが今は全く読めません。もともと私は1冊を何回も繰り返し読むほうなのですが、ヘッセについてはある時期からピタリと手が向かなくなってしまいました。私にとってヘッセは20代の感性でなければ味わえなかったのかも知れません。
 今はカミュの乾燥した世界と三島由紀夫の人工美という、どちらかというと無機質の世界に凝っております。映画ではトリュフォの倦怠感に惹かれております。果たして人生にくたびれ果てた年代に達し、これらの中に何を発見するのか何となく楽しみです。


1992年10月15日

 挨拶も確かに地方ほど時間をかけているそうです。ちなみにアンブラセの回数はラテン系の国では偶数回、あるスペイン人の説によると東欧の一部では奇数回だとのことです。パリだと偶数回の最小、すなわち左右1回ずつの合計2回ですが、たまに左右2回ずつという例もみかけます。


1992年10月05日

 私が何かメッセージを書くとき、どうも日本や日本人との違いにスポットを当てがちであるようです。
 実は私自身としては、日本とフランス、あるいは日本人とフランス人は、案外と共通するものが多いと前々から思っていました。メンタリティについても、日本は本来ラテン的だという思いが私にはあります。これはかなり異論もあろうかと思いますが、江戸風流の世界などをのぞくと、日本人(特にオトコ!)の好色さ、おおらかさなどはかなりフランス人のエスプリと相通ずるものがありましょう。まあ、日本人の原点をどこに求めるかという大問題もあるわけですけれど...。私は本来的にスケベだと思う。
 いずれにせよ、フランス人も日本人も一応アイデンティティのある集団なので、違いもあれば共通点もあるのは当然、どういう角度で見るかによって似て見えたり違って見えたりするのは当たり前でしょうが。


1992年10月01日

 言わなければ分からない。私はさらに、「行動で示さなければ分からない」を付け加えましょう。つまり、好意を持っている人間には親切な行動を示す、これも重要な原理だと思うのです。具体的には、アンブラセもそうだし、握手もそうだし、食事の時にカラフを持ってきてあげるとか、カフェを運ぶなんてのも当てはまります。
 言葉にせよ行動にせよ、常にメッセージを発していなければならないということでしょう。私はこの底流にやはり個人主義があると思います。つまり、個人=完結した自己と捉えるが故に、自分にとっての他人、そして他人にとっての自分は基本的に「得体の知れない存在」であるわけです。従って、好意を持っている人にはそのメッセージを伝え続ける、逆にメッセージがない限り「得体の知れない存在」であり続けるわけです。日本社会の場合は多分デフォルト値が「(潜在的)仲良し」なのでしょう。ですから、メッセージを発する必要性が相対的に低いのだと思います。日本人の女の子が(男でも同じでしょうが)ヨーロッパやアメリカに行って、彼らがとても親切だと感じるのもこのような背景があるのではないでしょうか?
 それにしても恋というか人間関係が一種のゲームだというのは言いえて妙ですね。一般的にはより惚れた方が負けだと言いますが。

 アメリカ人との付き合いもそれなりにありましたが、ことプレゼンテーションに関しては明らかに彼らの方が一枚も二枚も上ですね。また、プレゼンに対する入れ込み方も根本的に違うとも感じました。
 昨日の授業では(ちなみに語学学校は8月で終わり、9月からGEの授業が始まりました)一昨日のビデオを見せられたのですが、いやいやもう顔を上げるのが苦痛でした。それでもやはり演劇までやっているプロに指摘されることはいちいち尤もで、いったい目から何枚うろこが落ちたか分かりません。
 この3日間で私も含めた全員が一番注意されたのは、話しているときの呼吸でした。これがうまくできれば話すスピードも口調も自ずと整うはずだ、とのことです。ううむ、私などは息ができなくなるかもしれない。
 ところで、フランス人同士の会議で口論が激しくなると、誰かが「Zen!」と叫んで呼吸を整えることがあるそうです。無論Zen=「禅」です。


1992年09月06日

 私は奥ゆかしいと感じてしまう。京都びいきだからかもしれませんが。そういえば、三国志の中でも劉備玄徳が徐庶に帰って貰おうとしたとき、家の者に「湯を点ぜよ」と命じる場面がありました。中国でも似たようなメッセージがあったわけですね。
 パリっ子の間にも似た様なコミュニケーションは結構あるそうです。パリ在住12年という方が、以前そんなことをおっしゃっていたように記憶しています。生憎と具体例は失念してしまいましたが、こういう時はああしてくれというメッセージ、あういう時はこうしないでくれというメッセージというものがあるのだそうです。


1992年08月28日

 私なりに感じた「京都パリ類似論」(?)は次のようなものです。もちろんこれは私の一方的な感想であり、かつ、私は東京もNYも京都もパリも好きであると断って(弁解して?)おきましょう。
  • 文化的中心地という意識が強い(京都でも年配の方はそうなのでは?)
  • 文化の新興地への対抗意識、優越感、そして憧れが複雑にからみあっている
  • 概して閉鎖的だが、一度中に入ると異様なほど親切
  • 観光客の受け入れは手慣れたものだが、転居者には冷ややか
  • どこかのんびりとしたところがある(良く言えばせせこましくない)
  • 保守的なようでかなり進歩的、しばしば前衛的
  • 街全体にけだるい雰囲気が漂っている(これは「活力はあまりない」と同じ内容だと思います。私は何となく悠久の時の流れを感じましたが)。

 だいたいこんなところです。  東京NYは簡単に言えば、経済活動でも遊びでもエネルギーが充満している、せせこましい、空が狭いという3点だけですが、これだけでもNYにいた時は東京と変わらない印象を受けてしまいました。確かにステレオタイプという点では、パリはNYと同じですが、それ以外の点では京都との共通点が多いと思いました。  まあ、東京でも昔からの江戸っ子と戦後流入住民とでは全く気質が違うと言いますから、このてのテーマは所詮印象を論じるしかないですね?この続きはパリでゆっくりやりませいか(笑)。


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