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過去の日記一覧


この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
■ コミュニケーションカテゴリー

カテゴリ「コミュニケーション」に投稿されたすべてのエントリのアーカイブのページが、新しい順番に並んでいます。
一つ前のカテゴリーは、「ゲームの話題」です。 次のカテゴリーは、「スポーツ」です。

1994年07月27日

 コミュニケーション研究で最初に接したのは、「論文の書き方」でした。テクニカル・ライティングですね。まあ、もともとのぼくの仕事が、調査研究の報告書書きでしたから。
 これに関連した話題として、「図形とキャラクターについて」というような議論をやったことがあります。そのときに、ひょっとすると、「読んで理解する」文化と、「見て理解する」文化の相違があるんじゃないか、日本だと「見て」直感的に理解することが重視され、それがひいては Communication ecrite ないしレトリックの未成熟に至ったのではないか、などと思ったのです。実際、フランス人は図表よりも論述をやたら好む傾向があるように思う。
 マニュアルについて印象的なのは、清水義範『秘湯中の秘湯』に出ていたエピソードです。蝶々結びをどやって説明するか、という部分ですね。


1994年05月25日

 『日本語学 1990.11』(明治書院)のなかに、

 文字の型と読みの速さ(山田尚勇)
 外国人の漢字学習の認知心理学的諸問題(海保博之)

 という論文が掲載されています。これは要チェック。


1994年04月22日

 ごく簡単に、

 Toutes mes felicitations.
 Tous mes voeux!
 Bon mariage!
 Je vous souhaite bon mariage.

 ちょっとひねって、(ほとんど皮肉であるが……)

 Bon succe!
 Bon courage!
 A merveille!

 でも、一番バカ受けするのは、毛筆でかな文字か漢字の祝辞を書くこと。すみっこにフランス語の説明を入れる。


1994年03月10日

 前に書いたかもしれないけど、ぼくはいま、英語圏の国に旅行するのがこわい(ってほど大げさでもないけど)んですよ。まがりなりにもフランス語で用がたせるわけで、当然、フランス語の通じる国なら不自由はないだろうって安心感があるわけですね。その安心感の背後には、フランス語が駄目なら英語があるさ、みたいなバックアップ意識もある。
 ところが、英語圏の国だと、最初から切り札?を使わなければいけないプレッシャーを感じる。イギリスやアメリカ、オーストラリアでそんなにフランス語が通用するわけないし。そんなわけだから、ベルンでフランス語が通用するのを知ったとき、ほんと、安心しましたねえ。


1994年02月01日

 会話ではないけど、一番わかりやすいのは政治家の演説でしょうね。なにしろゆっくりしたテンポだから。ENA でそう教えているのだろうか? 前々から一番わかりやすいと評判なのは、声の通りのよいジャック・シラクですが、現首相のバラデュールもゆったりしてとても聞き易い。
 企業なんかでも役員クラスの人は、とてもゆっくり話してくれることが多いように思います。反対に、バリバリのエンジニアとか秘書たちはそれこそ機関銃ですね。
 学校では、おととしは内容はわかっても会話がわからんかった。今年は喋っていることは分かるのに、内容がさっぱりわからん。


1993年12月15日

 電車の中で声をかけるのに一番いいタイミングはいつか? これは自分または先方のすわる瞬間です。このタイミングで最初のコンタクトを持つと、後のコミュニケーションがスムーズに運ぶ。これは対人心理学だかで言われていることだけど、江下の経験では万国共通でなりたちました(今のことろだけど)。かける言葉は「Bonjour」で充分。あとをどうつなぐかは、相手の反応次第。
 行動が進行しているときは、意識は行動にいっているので話しかけられても注意がいきづらい。動作がおわったあとは、今度は身構えてしまうわけですね。だから座る瞬間、直後が狙い目ということになります。これは電車の中以外でも、相部屋のホテルとかでも同じ。


1993年09月11日

 一度「灰色の文献」という直訳を目にしたことがありますが、なんかおかしかった。そうそう、説明の時に失念しましたが、アメリカ政府の研究レポートが、公表可だと白表紙→ホワイト、機密文献が黒表紙→ブラックだから、中間のものはグレイだ、という説もあるそうです。


1993年09月06日

 そもそも「牡蛎のツラ」や「ケーキのかけら」が悪態といのも、論理的に考えたのでは分からないですよねぇ。気持ちは分かるけど。ほんと。
 高校時代、突然「すりこぎ野郎!」という悪態を叫んだヤツがおりました。後から皆で意味を聞いたら、「いやぁ、ただ突然思い付いただけなんだ....」悪態の真相なんて、こんなものかも。


1993年09月02日

 マナーには、精神と技術の2面があると思うのです。我々が料理のマナーを語る時、ついつい技術面にのみ注目しがちではないだらふか? 反対に、マナーの精神と技術とが乖離し、技術のみが形骸化した結果が我々の周囲にあまりにも多いのではないかと思うのです。
 思えば我々の間には実に奇妙な「マナー」が存在します。食事以外でもそうでしょ? 挨拶にしても、ある民族は頬にキスをし、ある民族はタバコを交換し、ある民族は頭を下げる。御辞儀にはそもそも自分の急所(延髄)を晒し、敵意のないことを示すという「絶対的意味」があったそうです。しかし、いまではそんなことを考えて御辞儀する人はいない。
 形骸化は一方で手続きの簡略化を果しているのではないだらふか? 手の込んだ料理というものは、無限のメッセージが込められているのではないだらふか?ならば自然なマナーというものは、そのメッセージを受信できてはじめて可能なのでしょう。形骸化したマナーで四苦八苦するというのは、懸命になってメッセージが聞こえるふりをしている態度なのではないだらふか。


1993年08月31日

 フランス料理に絡んで料理マナーの話が続いておりますが、コミュニケーションの立場からマナーを考えたことがあります。
 私は元々が不調法ゆえ、マナーというものには、権力的、強圧的なマイナスイメージを持っておりました。しかし、これは料理を作る、あるいは給仕する人とのコミュニケーション手段と考えれば、必然性を持ったものだと思うようになったのです。形骸化されたものもありますけどね。
 料理の本質は無論おいしく作ることであり、おいしく食べることにあるでしょう。ここにはヘタな理屈は必要ないかもしれません。しかし、料理人に料理の仕方、給仕する人に給仕の仕方があるように、食べる人にも食べ方もあるはずではないかと思う。繊細微妙な味をいかに賞味尽くすか、そこにマナーの本質があるのではないかと考えました。
 以前、ウチの親爺メが、「客を選ぶ小料理屋」のことを怒っていたことがある。「お前のような客は来るな!」という料理人は傲慢だというのです。
 でも、まてよ?と思ってしまった。例えば私は味オンチであり、旨いものとまずいものの違いは識別できますが、旨いものと抜群に旨いものの区別がとんとつかない。こんな客ばかりだったら、料理人の職人芸は全くの空振りに終わって店を殺すことは、結構あるんじゃないだらふか? バブル客がちなことですし。
 伯牙絶弦という言葉もあります。それなりの料理人を相手にするためには、食べる方もそれなりの修業が必要なのではないだらふか。そんなわけで、「一度くらい星付きレストランに行きたい」というカミさんを、「我々には十分楽しむだけの用意ができていない」と言って説得するのでした。
 ベルンに住むピルミンは、ワインにこだわります。彼は収入の3分の1をワインに注ぎ込んでいます。何百万円という額です。彼はワイン好きの客には秘蔵ワインを惜しげもなく振る舞いますが、下戸の客には安ワインですませてしまいます。ケチではなく、「ワインが可哀相」だからだとか。東京にもグレンリベットの水割りを頼む客は、お引き取り願うショットバーがあるそうですね。
 インド・カレーは、手で直接食べるのが最高だと思う。でも、上品なステーキを手で食ったら、やはりシェフや肉が可哀相だと思ってしまう。それ以上に、必然性のわからんマナーには腹が立つけれど....


1993年08月29日

「情報は発信するところに集まる」という法則があるそうです。経験上、真であると思っています。
 別に同時通訳のように喋れる必要はない。ネイティブのような名文でなければならないわけではない。研究者に重要なことは道具として外国語でコミュニケーションできれば良いわけです。大数学者ガウスは、ロシア人数学者ロバチェフスキーの論文を少しでも早く読みたいがため、70才を過ぎてからロシア語を勉強したといいます。あのガウスにしてこういう努力を惜しんでいない。
 自然科学の世界では、最近とみに「グレイ・リテラチャ」の役割が大きくなっております。これは出版に至らないブリーフィング、論文、内部資料から実験データ、アイデアにいたるあらゆる「半」成果物です。件の「大先生」のような研究者ですと、このグレイ・リテラチャ収集で決定的な差がついてしまう危険性が大きい。
 無論、既存の成果物だけから立派な研究をなさっている人もおられましょう。こういう問題は軽々しく評価をすべきではない。一人でコツコツ行える分野とてありましょう。しかし、研究=情報処理でありますから、コミュニケーションの範囲が限られていることは、根本的なハンディとなるはずですね。
 この点からも通信ネットワークの普及は興味深い。


1993年07月29日

 外国語理解の仕組みは母語と根本的に違う点があるそうです。母語理解は大脳皮質で処理されるのはかなり狭い領域なのに対し、外国語は大脳の中で既に発達した様々な機能を借用する形で認識されるそうです。大脳の神経細胞は6才までにほぼ65%も発達してしまうとか。となると、我々は幼少期に獲得した能力によって外国語を理解しようとする、と考えることができます。
 このことから、幼少期に多くの「音」に節する機会のあった人、例えば3才頃からピアノを習っていた人などは、外国語学習においても「耳」が強いという現象が生じてもおかしくありません。他方、私のように落書きばかりしていた者は、視覚への依存が大きいような気がします。
 無論以上はあくまで環境要因です。生物の能力には環境以上に遺伝が決定的役割を果しますから、聴覚認知の発達した家系、視覚認知の発達した家系というのも存在するでしょう。


 アジア人のフランス語の中でも、中国人のフランス語も「全身耳にしないと」分からないケースが多いですね。カミさんの友人にも何人かおりますが、b音がわかりずらいのです。イントネーションも踊っているような感じがありますから、馴れるのが一苦労。まあ、分かりずらいフランス語はお互いさまですか文句を言えた義理ではないのですが。
 タイ人などのアジア人だと仏教の話題がよくでましたね。ただ、彼らの仏教は小乗ですから、日本や中国とは異なります。中国人だと仏教よりも儒教や老荘思想の話題が出ました。「日本人は子供の時は神道の祝福を受け、学生に至って老荘的虚無主義に浸り、社会に出ては儒教的勤労精神の元で働き、結婚のはキリスト教で誓い、死しては仏教に則って埋葬される....」。こんな話をしたら、不謹慎だと思われるか。


1993年07月28日

 以前は私も日本語、というか表意文字を用いる母語のコミュニケーションでは視覚依存の度合いが強いと考えておりました。しかし、いろいろと調べてみると、事は単に表意文字だから、というだけで済ませられないようです。
「日本語学」1990年11月号掲載の「文字の型と読みの速さ」(山田尚勇)では、要は馴れの問題であって認識のスピードと文字型は無関係であると論証しています。無論これが真理であるとは限りませんが、ローマ字でも文字列を一つのパターンとして認識しているとの分析は説得力があると思うのです。つまり、漢字では一つの文字をパターンとして捉えるのに対し、英語等では単語という文字列をパターンとして捉えるわけですね。
 もう一つ、認知学の研究によると人間の情報処理は3つの記憶から構成され、一番「手前」に位置する層を「感覚記憶」と呼んでいるそうです。ここでは目や耳等の感覚器官から得た信号をバッファするわけですが、例えば私のこの文を読む時、多分頭の中で音読するわけですよね?ここから、感覚記憶では文字よりも「音」の方がより大きなウェイトを占めていると想像できます。反対に、速読の場合は視覚情報だけで認識しようとするのでしょう。
 結局問題となるのは、認識の過程で表音文字の文字列(=単語)と表意文字の一字一字を全く同型対応するものと考えられるか否かです。もし同型であれば、すなわち我々が「無意識のうちに漢字を連想している」ように彼らも「無意識のうちにスペルを連想している」のであれば、両者に違いはないと考えられます。でも、我々だって会話の場面で「漢字を連想する」のは、「音」だけでは納得いかなくて「意識的」に情報を検索する場合だけではない?
 文字はあくまで視覚的表現ですから、同音異義語が多いのは会話において本来「不便」なはずですね。それに中国語の豊富な音を考えると、表意文字と夥しい同音異義語の存在を関連づけるのは不自然のような気がする。どうもこのあたりは日本語の場合、所謂文化の均質性、すなわちコミュニケーションにおける認識の共有がポイントだと思うのです。また、「目をつぶって云々」という行為は、非言語コミュニケーションの表現手段ないしは比率の違いかな、などと漠然に考えていますが、これは単なる思い付きにすぎません。これに関してはまた後日思うところをアップします。
 ところでその伝言ゲームはフランス語ですよね?だとすると、単に「音」での記憶に自信が持てないから「視覚的記憶」の助けを借りようとした所産ではないかとも思うのですよ。耳から入る膨大な情報をストックするためにはどうしても視覚情報の助けが必要になるとか。果してこれが音の貧弱な日本語を母語とする我々固有の問題か、あるいは異質な音の外国語を学ぶ者に共通して見られる現象なのかに興味があるところです。


1993年07月26日

 TF1で中継しているF1のインタビューですと、イギリス人は案外とフランス語で応じる人が多いですね。フランク・ウィリアムズはいつもフランス語で応じており、しかも案外と分かりやすい。FISA会長のマックス・モズレーも同様だったと思います。まあ、この人はコンコルド常駐だから当然か。
 TF1の放送で一番困るのが英語のインタビュー。相手は英語で応えているのにフランス語の同時通訳が入るので、どっちに耳を傾けていいかわからなくなります。米語の場合は素直にフランス語に耳を傾けるのですが。(米語はわからん!アメリカ映画の放送はフランス語字幕の方が分かり易い)
 昨夜FMを聴いていたら、突然日本語が朗朗と飛び出てきて驚きました。何やら詩の朗読だったようです。日本語朗読の後にフランス語の訳文を朗読しておりました。ちゃんとした日本語ならなかなか美しい響きでございますね。


 うろ覚えで恐縮なのですが、日本語の場合は言語中枢が右脳に分布しているという話しを聞いたことがあります。もしこれが本当だとすると、日本語の巧い外国人のきき耳は左が多いなんて統計もあったりして。
 そう言えば、何かを集中して聞こうとするとき、目をつぶることはありませんか? 私はそれこそ全身を耳にするため眉間に皺を寄せて、何て事もあったのですが、周囲には話しを無視するか寝ているかしか思われなかったようなのです。人が神経を集中させているのに、「Masa! Ne dorms pas!」ですもんね。がっくりきてしまう。トマなどは「N'execute pas de Zen!」でした。
 目を剥いてディベートする連中だから、目をつぶって沈思黙考などといふ習慣はないのだらうか?


1993年07月25日

 認知科学というのは、ごく簡単に言えば「理解の仕組み」を解明しようとする心理学といえましょう。人工知能ブームで一躍注目を浴びた学問領域で、情報科学やシステム科学を研究するものであれば、多かれ少なかれ関与せざるをえなくなった分野です。
 大御所が確かピアジェというフランス語圏スイスの学者ですので、優れた文献や論文の多くがフランス語で出版されているそうです。実際はアメリカで研究が進んでいるらしいですが、元々フランスは心理学の盛んな国ですから、認知学への入れこみもナカナカなようですね。
 認知学と大脳生理学とは前者がの理論的解明を進め、後者が実証するというような補完関係もあるそうです。以前私が言いました「バイリンガルは多かれ少なかれ二重人格云々」と言ったのもその一成果です。
 結構面白い分野ですので、ご関心があれば「学習と環境 講座:現代の心理学」(小学館)などをご一読されると宜しいかと思います(これ、私のタネ本の一つです)。これ以外では、東、波多野、佐伯といった諸先生の著作が新書などで出ていたと思います。



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