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この日記について
この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。 2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。 2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。 1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。 1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。 |
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フランスはあまりゴミのリサイクルをやらない。で、その理由が二説あって、ひとつはリサイクルが面倒くさい。もうひとつは、フランス人はドケチなので、モノは徹底的に使う。だから捨てられるころには、リサイクル不能状態になっている、と。どちらもけっこう信憑性があります。
マクロ・レベルの国民経済について、日本とフランスとで、決定的に違う部分がひとつあります。住宅投資です。フランスでは築百年のアパートが珍しくもなんともない。巴里のサン・ミッシェルあたりにいけば、築三百年で現役なんて建物もけっこうあります。だけど日本じゃ築30年のマンションなんてボロですよね。
だから、当然ながら日本では住宅投資のフローがかなり発生します。これは Produit National でかなりの比率を占める。あるエコノミストに聞いた話だと、実質成長率で日本の2パーセントとフランスの0パーセントは、経済成長の点でほぼおなじことなんだと。
自動車なんかでも買い換えサイクルは短い、ニッポンは。なんというか、戦後の日本経済の構造自体が、ストックを増やすよりもフローを拡大することに走ったから。もっとも、ヨーロッパのストックなんて、15〜19世紀に世界中の富を搾取した結果だけどね。
考えてみたら、日本の安全神話って、単なる偶然の結果って気がするこのごろです。たとえば長者番付ひとつにしたって、ヨーロッパでこんなのやったら誘拐シンジケートが大喜びするだけです。
フランスやアメリカの治安当局の取り締まりは、日本とは比較にならないくらいすごいらしい。電話の盗聴なんかも当然だそうで、そのシステムのない日本の公安当局はFBIなどから極秘情報をもらえないそうです。ただ、フランスでもアメリカでも、ジャーナリズムが常に行き過ぎをチェックしているんですよね。その点、日本のマスコミはなんでもかんでも文句を言うだけ、という点が怖い。
フランスって、いろいろな経済指標で世界4位とか5位が多いんですね。ただ、トップとの差があまりにも開いているため、「周回遅れのトップランナー」と言われたりします。
ただ、エネルギーと農業の自給にかける執念はすごいと思う。農業を空洞化させてないいわゆる先進国は、アメリカとフランスだけじゃなかったかな。日本なんて工業の空洞化は大騒ぎするのに、農業についてはなーんもでしたから。
セナの「神を見た」は本当だと思っています。もちろん、それは錯覚や幻覚といって片づけることもできるでしょうが、選ばれた人間のみの体験できる奇跡の一瞬というものが、たしかに存在すると信じています。まあ、大脳生理で説明できるかもしれないけど、「奇跡の瞬間」といったほうが、ロマンチックな響きでもあるし。陸上短距離の選手でも、「神を見た」現象はあるみたい。こういう一種のトリップは、われわれ凡人にもあるんじゃないでしょうか。神がかったような状態になるってやつですね。
ぼくも仕事で文章を書いていて、「手に神が宿る」ような気になったことが二度ほどあります。まあ、ギリギリ追いつめられていたときなんですけど、キーボードを叩く手が、次々と文章を仕上げていく。この日一日で、ぼくは400字詰め換算で240枚の原稿を書き上げました。ただ、その翌日から三日ほどは、完全にだしがら状態です。たぶん、絶望的状態で、右脳にターボがかかったのでしょう。「火事場の馬鹿力」ですね。でも、どっちかというと、ぼくは神よりも稿料振込通知を見たい。
一度こういう甘い汁を吸ってしまうと、「原稿なんぞいつだって書けるぜぃ」というゴーマン気分になり、途端に納期破りの常習と化してしまう。
マス・コミュニケーションの理論を眺めると、《不確実性の原理》は絶対に社会学でも成立するという気がしてきます。自然科学畑出身で社会科学に接すると、たいてい現代物理になぞらえたがるみたいですね。ぼくもミード理論を読んだとき、惑星系の重力場に例えて独り合点していました。
フランスの文化政策ですが、ぼくは経済政策というか、経済経営の根底にある思想と一体不可分だと思っています。アングロ・サクソン流の自由主義「神の見えざる手」とは明確な一線を画していますね。
要するに、劣勢のものは保護しなければ滅びてしまう、そして、生存に関わるものに、滅ぼしてはならないものがある——という発想ですね。アングロ・サクソン流だと、どんどん滅ぼすことによって、最後に最善のものが残るということになる。
これは又聞きなんだけど、フランス人のマイノリティ文化保護には一つのパターンがあるそうです。これは、言語において顕著にみられたらしい。
つまり、マジョリティが優先されるのは事実で、まだライバルと見なされるうちは迫害される。ところが、もはやライバルとはなり得ないと判断されると、一転して手厚く保護されるらしい。
ブルトン語やバスク語といった独自の言語を、ある意味で迫害しておきながら、それがもはや「方言」にすぎないほどのマイノリティになったとたんに、学校教育で手厚い保護を始めた——これが一つの型だとか。
本質的には、「アイデンティティ」の保護意識が強烈に作用しているんでしょうね。ただ、ミッテラン政権の文化政策は、多分にミッテラン本人の個人的趣味という見方が強いようですが……。クフ王がピラミッドを後生にの残すようなものでしょうか。
ぼくは個人的に、「ロマンチストはまず第一にレアリストである」と勝手に思っています。ロマンってのを、厳しい現実を透徹した視点で観察したうえで、もののあわれやはかなさを感じること、というように思っています。あ、ぼくの勝手な解釈ですけど。
で、ぼくが一方的に代表的ロマンチストだと思っているのが、コンラート・ローレンツなんですね。彼はこんなことを書いています。
自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできないのである。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もし彼が本当に眼を持っていたならば、彼は当然自然科学者になるだろう。(「ソロモンの指環」より)
たぶん、ここでいっている自然科学者っていうのは、すごく広い意味だと思います。かならずしも一般的な科学者をよいしょしているのではないと思う。ヘッセなんかも、人間の懊悩にまで徹底的に踏み込んだひとですよね。目をそむけるかどうかに、センチとロマンの違いがあるように思います。
Mac はハングるもの。
DOS は使いづらいもの。
ソフトにはバグがあるもの。
ディスクはクラッシュするもの。
フランス人の仕事に完璧はめったにないもの。
出版物に誤植はつきもの。(^^;ゞ
試験は落とすもの。(;_;)
納期は遅れるもの。
クスクスはアニョーで食べるもの。
注文したCD-ROMは届かないもの……
職をたずねられて、かたや「職種」でこたえ、かたや「社名」でこたえる——これは、フランスでは「資格」を、日本では「所属社会」をこたえるという行動になりますね。
おたがいに、関係をむすぶための共通性・関連性を確認するという点では、まったく同じ行動ということになります。日本ではスーパー人格である所属社会相互の関係が、個人の関係に射影される傾向があるそうですから。
「わたし、エンジニア、あなたもエンジニア、をを、一緒でんな!」というよりも、「わたし、ルノーの社員、あなたホンダの社員、をを、お互いライバルですなあ、まあ、よろしゅう、わっはっは」ということでんな。
フランスの場合、「職種」と「所属社会」とたずねることは、まったく別の意味あいがある。前者の場合は人間関係形成という目的があるけど、後者の場合、契約関係を結ぶ場合の信用照会という側面がある。たとえば、アパルトマンの契約をするときなどは、自分のはたらく会社を明かすことで「信用」をえるということが可能になります。
フランスの「エリート層」はとてつもないプレッシャーがかかる。だから、好きこのんでエリートになろう、というひとが、必ずしもメジャーではないように思う。昔のことだけど、アポを取ろうと思ったら、土曜の朝八時からならあいている、と言われてたまげたことがあった。でもなんちゅうか、「難しいことはどこかにお任せして」なる層ががんとして存在することが、いまのECの状況を招いているなあ、という気もする江下であった。
日本の場合、これは相続税が「上流階級」を消滅させたとも思うのだ。なにしろ、ヨーロッパの上流のシンボルったら、「働かない」ことでしょう? 「働かない」かわりに、文化なんかに貢献する。ブランド店なんかは昔こそ「眉しかめ」だったらしいけど、いまはどこも日本人の「殺到」で経営が成り立っているんですよね。ぼくの場合、「殺到」に加わりたいけど、先立つものがない。(;_;)
日本でも公安とそれ以外の部署は、犬猿の仲だそうですね。諜報機関と警察機構というのも、全世界的に犬猿の仲だそうですね。アメリカだとCIAとFBIの関係はすごく険悪らしい。あれ、そういえばフランスの諜報機関って何だろう? 旧ソ連のKGB、イギリスのMI6、イスラエルのモサドなんて有名だけど、フランスには何があるのだろうか? ないはずはないと思うのだけど。
そういえば、MI6の存在を公式に認めたのは、確かメージャー内閣でしたね。「007は実在だ!」なんて新聞記事を見た記憶があるけど。
民主主義獲得に日本人が血を流さなかったかというと、そのあたりは歴史認識によって意見がわかれると思う。一般には「与えられたもの」といわれているけどね。
ぼくは「幕末はペリーに始まりマッカーサーで終わった」という認識なのだ。よって、封建主義から次のパラダイムに移るまでに、勤王の志士から第二次大戦の無名兵士にいたるまで、おびただしい血が流れたと考えるべきだと思う。
デモで思い出したけど、ぼくが大学1年のとき、国立大学授業料反対デモがあった。クラス討議のあと、有志一同が駒場から国会議事堂までデモ行進した。千人くらい集まったのかな。おれはもちろん先頭で行進したのだ(笑)。クラス討議で支配的な意見が、まさに「デモをしたって何も変わらない」だったね。そこで険しい顔してすっくと立ち上がったのが、いま、このテキストを巴里で入力しているおっさんの未成年時代(笑)。
で、おれが主張したのは、「デモをして変わるかどうかはわからん。多分、変わらないだろう。でも、何もしなければ絶対に何もかわらないぞ」だった。若かったな(笑)。でも、この考えは今でも同じ。変えようとしなければ、絶対に変わらないのは真理だよね。だから、変わるかどうかを刹那的に考えるんじゃなくて、変えようとする意志を継続することが大事だと思う。
フランスって国は、人の考えは全部違うって前提があるでしょ? だから、よくも悪くも相手の意志をおもんばかることが少ない。その結果、不満があるときは「不満」を表示しないと、誰も「あいつは不満がある」って構ってくれない。だから、まめに意志表示せんとあかんのかなってぼくは思っている。
今日はうちの近くで大規模なデモがあった。アパートの前に、武装警官が何十人もいた。詳しいはなしは別のところで書こう。
ぼくの勝手な推測だと、イギリス人がじろじろ見るのは警戒心から、フランス人やイタリア人がじろじろ見るのは好奇心から、って気がしますね。イギリス人とフランス人、そして日本人の反応の違いは、非言語コミュニケーションでは頻繁に取り上げられるテーマですね。この分野の必読書、マレービアンの「ノンバーバル・コミュニケーション」でも、食事に対する反応の違いが取り上げられていました。
溜まり場が少ないって、悲しいことだよねえ。やっぱりカルチエ・ラタンは魅力あるもん。確かにセルジーの方が広々とはしているけどね。大学の分散と Internet などの普及には絶対関連があると信ずる。
学生の気質は時代をうつしていると思う。だから、世のオジサン・オバサンたちがいかになげこうと学生に責任はない。当のオジサン・オバサンたちが学生の頃だって、「今時の学生は……」と言われていたはずなのだから。
「社交を学び、大人である」との見解には疑問があります。コミュニケーション論からは脱臭化が指摘されており、むしろそちらの視点の方が現象をうまく説明しているように思われる。ただ、問題はその背景をどう考えるかでしょうね。
どうも「学生街」がなくなりつつあるのではないだろうか?
これは大学の郊外移転が関係しているように思えてならない。
学生街で何を思い浮かべるか?
ぼくの場合、場末の喫茶店、古本屋、雀荘、春歌の歌える大衆酒場、そして安っぽいアパート群ですね。いずれも人がたまるための無目的の「場」を提供している。八王子や厚木にこれらの集積を突然求めるのは無理な話。以前、東大に立川移転の話しが持ち上がったとき、一番危機感を感じたのは工学部だそうです。理由は簡単。秋葉原が遠くなるから。アキバのあんちゃんと交流できないと、実験器具を作れなくなるそうだ。
大学にも学生にも一番大切なのは雑多な人の交わりであり、それを実現するのが「たまり場」であると思う。最近の学生気質云々を聞くと、「たまり場」の機能、さらに突っ込めば、たいせつな都市集積がくずれていることに想像が飛んでしまう。
パリでも大学の郊外移転がカフェの衰退を招いたそうだけど、分散でえるものもあれば、失うものもかなりあることを忘れてはいけないような気がする。
心理的にアフリカはあまりにも遠距離ですね。まあ、それは何らかの必然性があってのことなので、無理矢理関係を深めるべきだ、とまでは言いません。しかし、ややもすると我々はアラブ、アフリカにステレオタイプのイメージを持ってしまいがちである。これは問題でしょうね。
フランスに来て、アラブ人や他のアフリカ人に知己をもてたことが、滞在の最大の成果の一つだと思っています。ぼくはパリに住んでから、はっきりとアラブ人贔屓になりました。
ヨーロッパやインドの遺跡には、日本の古いモニュメントとは異なる「悠久」を感じます。これは一体何なのでしょう? 日本では変化や移ろい易さに悠久の時を感じるのかもしれません。インドなどでは不朽の物体にそれを感じるのかもしれません。個人的にはタージマハルに一番強烈な「時」を感じました。遺跡の中では新顔なのに、不思議なものです。尤も明日香村あたりは地域全体に何か時の淡々としたニュアンスを感じます。
一般に経済力のある国の国民は外国語が「苦手」なのだそうです。必然性が相対的に少ないということですね。反対にバイリンガル、トライリンガルは経済的に自立できない証拠でもあるそうです。実際、GNP 上位国の中で外国語を比較的不自由なく喋れる国民はドイツ人だけでは? アメリカ人やイギリス人など「英語」しか喋れない人が圧倒的でしょう? 一部エリートを例外として。
秋葉原の店員は結構英語が達者ですね。C&Gもアキバに行けば多少意見を修正したのでは?これはサントノーレのブティックと同じ理由でせう。
アメリカ人の旅行マップによれば、日本は普通に英語の通じる国だそうです。
斜に構えて日本の「遅れ」を非難するのは、明治維新以降の伝統的なインテリ・スタイルですね。細かく見ると、このような現象は天智朝、信長時代、幕末・明治維新、そして戦後から現代にかけて特に顕著なようです。このようなインテリと日本スタイルの葛藤は、三島由紀夫の「絹と明察」に面白く描かれているところでもあります。
日本の文明サイクルは盲目的な摂取の後に必ず内向きのエポックがやって来ます。だから、伝統的インテリはこのような過渡期の典型的現象、失業する日?も遅からずやって来るであろうと、私は案外のほほんと見ているのです。
思えばかような風潮を根付かせた幕末・明治維新というのは、一面実に悲劇的結末を導いています。幕末の群雄の中で一流の人物は維新の途上で死に絶えたか、あるいは第一線に出ることなく終わってしまったのですね。横井小楠、坂本龍馬が暗殺され、勝海舟は主流となれず、西郷、大久保、木戸の三人があれよあれよという間に死んでしまった。細かく話せばキリはないですが、これを原因とする不完全燃焼が太平洋戦争敗戦まで辿りつく、というのが私の「幕末はペリーからマッカーサーまで」という史観の基本なのです。
外国人に日本を非難されたら誰が弁護するのか? 誰が改革を行うのか? これは我々日本人しかいない。非常に悪い例ですが、政治スキャンダルにしても、非難の尻馬に乗ることは易しい。仮にフランス人の友人がスキャンダルを非難したとしましょう。「そうだよ、日本人はバカで民主主義なんて理解していないからね。ハハハ」と応えるのは簡単なことです。
でも、何かおかしいと思いませんか?天に向かって唾をはくのと同じだと思いませんか?
私は何も問題を正当化しろというわけではない,ただ、当の国民でありながら簡単に相手の非難に同調するというのは、あまりにも傍観者的すぎるのではないか、と思うのです。本来ならば、ここでなぜスキャンダルが起こるかを分析し、なおかつそれをどうすべきかを堂々と論じるのが筋でしょう。尤もかく言う私自身、「いやぁ、民主主義なんでFabrique au Japonぢゃないから元々うまく機能しないのさ。それより賄賂の額がお前達の国の10培というのは凄いだろう」などと、煙にまくのが精一杯で....。情けないことに。
まあ、話しは逸れましたが、こういうことを逆にフランス人に突っ込むと、結構激しく切り返して来ると思います。決して非難の尻馬に乗ることはないでしょう。私は美しい愛国心だと思う。結局自分の国を良くするのは自分達しかいない、そういう意識を特にフランス人は強く持っているように思う。「世界で一番好きな国は?」という質問に、堂々と「フランス!」と応える彼らに私は称賛を惜しまない。
何が言いたいかというと、コクサイ派が結局「こいつらどこの国のやつらだ?」という所が問題の本質をついているように思うのです。いくら国際社会とは言え、信頼関係の基本の個々人のアイデンティティだと思うのです。その一つが宗教であり、また文化を背景とした「国」であると思うのですね。コクサイ派というのは国という一つのアイデンティティを自ら捨てているように思う。そういう連中って、欧米でもアラブでも一番信用されない類だと思うのですよ。
結論を言えば、日本人観光客はあまりに無防備で、これならどこの都市に行っても危険がいっぱい、と言われても仕方ないと思います。アメリカ人の同僚は「日本人は神経質過ぎる」と言っておりましたが、私の感想としては神経質な割に(?)、パリなどでは無頓着・無防備という感をぬぐえません。私の目から見てもこの人の荷物ならひったくれそうだな、何て思えるくらいですから、プロにしてみたら鴨ねぎの口でしょう。
具体的にどういうことか?まず、歩く早さやリズムが違います。パリの人はウィンドウ・ショッピングの際も店から店の間の移動は足早ですが、概して日本人女性はのそのそ動きがちです。また、住民は立ち止っている時ほど自分の荷物をガッチリ握り締めますが、観光客はえてして手が離れがちです。歩いている時も電車に乗っている時も、住民は必ず片手でショルダーストライプを握っていますが、日本人観光客、特に新婚さんはショルダーをたすきにかけて、両手をブラブラさせて歩く姿が多く見かけられます。
まあ、パリっ子でも無防備な人はいますが、以上は顕著な例です。
私が通常心掛けていることは、とにかく荷物からは絶対に手を放さない、なるべく早く歩く、動く止るのアクセントをはっきりさせる等です。あと、以前にもアップしたことですが、都市によって「やば地区」が決まっているので、そこには絶対足を踏み入れないことです。これらの心掛けだけで、パリの生活は格段と安全になります(と言っても、所詮東京とは比較になりませんが)。
一つ注意が必要なのは、「危険」というのが「治安が悪い」という意味の他に、「雰囲気が異様」というのがあり、ガイドブックなどではどちらも「危険」でいっしょくたにしています。後者は身に危険が及ぶ訳ではないのですが、雰囲気として何となくうさん臭いとか、ジロジロにらまれるなど、どこか異様な感じがするというものです。実際、観光客をからかう人もいるそうですから。パリで言えば、10区のChateau d'eauからGare d'est辺りがそうで、ここは南米・北アフリカ系移民が多く、アラブ人独特の鋭い視線や失業者がちょっと観光客にはとっつきにくい雰囲気を醸し出しています。街としては色々な商店があり、パリっ子にも人気のある面白いところなのですが。
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