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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
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■ 1996年09月 アーカイブ

1996年09月20日

 Place d'Italieは、案外と高台です。目の高さにパンテオンのてっぺんが見えるし。27番のバスを Place d'Italie から乗って St.Michel まで行くと、けっこうパリのアップ・ダウンを満喫(?)できます。
 イタリー広場から Avenue des Gobelins を一気に下り、ムフタールの入り口近辺で Rue Bernard とぶつかるあたりが「底」ですね。Bernard から先は一気にのぼり。右手奥には Ecole Normale Superieure やら Curie研究所があります。そのあたりが「峠」になるのかな。
 ホタテ通りと交差するあたりからまた下ります。St.Jacque をそのまま下っていけば、Sorbonne の裏手に出て、シテ島の右手に抜けます。27番のバスはそっちには行かず、Luxembourg の北東口に抜けます。ここで St.Michel通りに出るのだけど、先はまた下り坂ですね。下りを実感しようと思ったら、二輌連結のいちばんうしろの席にすわることです。
 最近は外務省に何度か行く用件があったので、83番のバスで北上する機会が多かった。このバスでもけっこう市内観光ができます。
 Brasserie Port Royal の前にバス停があって、ここからしばし Arago通りを西に。途中で右折して Port Royal通りに出て、RER の Port Royal駅から先は、華の6区のど真ん中を突っ切っていきます。Luxembourg公園の西側をずっと走るんですけどね。最初は Rue d'Assas を走ります。途中、パリ第2大学(Pantheon-Assas)の前とか、語学学校の Institut Cathorique の横を通り、Raspail通りに出ます。ここからまた北上し、St.German通りに抜ける。St.Germanから先は一気に Invalide まで出ます。6区のええとこどりしている路線なんですよね。


1996年09月18日

 おなじみの Brasserie Port Royal は前々号だかのOVNIに紹介されちゃいました。申告したのはわしじゃない。で、Brasserie Port Royal から La Sante刑務所方面は Arago通りのマロニエ並木なんだけど、ここ2日ほどは栗が落ちまくってます。秋ですねえ。いよいよ最低気温は10度を切っているし。人肌とおでん(なんちゅう組合せなんだか(笑))の恋しい季節です。
 Arago 通りにくらべてうちの目の前の Port Royal通りは紅葉が遅いのだけど、バカンス明けでどーんと増えた交通量のせいか、さすがに葉っぱが枯れている。でも散歩にはちょうどいい雰囲気ですね。
 となりの映画館ではいま「THE VAN」という映画を上映してます。原作はアイルランド人ドイルの小説で、実川元子さんの訳で日本語版も出てます。宣伝しておかないと元子さんにしばかれてしまう(うそ)。
 さすがに半袖で外出するのは寒い日々です。まだ屋内で chauffeur を使うほとではないし、500ワットのハロゲン照明がじゅうぶんに電気ストーブになってますけどね。


1996年09月15日

 高速列車の乗り心地とスピード感は、なんといってもドイツの ICE がダントツでしょう。とくに二等車輌でも座席がゆったりしているのがうらやましいもんです。巡航速度もたしか TGV より上だったと思います。
 TGV でいちばん快適なのは巴里・リヨン間かな。専用線だとさすがに速いですから。あと何年かしたら、韓国やアメリカでも TGV に乗れますね。


1996年09月14日

 パリに帰ってもうすぐ2ヶ月経過。これまでに変化したことは……。
 その1、体重が4キロ減った。原因ははっきりしている。パリに来るとチョコレートの消費量が激減するから。日本滞在中は近所に食品ディスカウントがあって、ハーシーの安いチョコを売ってたのであった。だけどさすがにパリで Godiva のチョコを暴食できるほど稼ぎがよくない。よって消費が減り、体重が減る、と。
 その2、やたら忙しくなった。これは単に4、5月あまり仕事をしなかったツケなんだが。今月はあと 300枚ほど書かないと。それでもなんとか三つ、〆切をクリアーしたんだけどね。瞬間一時的売れっ子状態です。これも体重減の原因かも。
 その3、日が短くなった。もう8時は空が暗くなる。まあ、東京の夏至ぐらいの日没時間になったかな、という感じ。でも高緯度地方だから、さすがにたそがれは短い。
 その4、ぼちぼち紅葉? アラゴ通りはもう葉っぱが赤く染まってます。でもここの通りはいつも思うんだが、紅葉しているっていうよりも、排ガスで葉っぱが枯れているだけなんじゃないのかな。染まり方がどこか痛々しいし。
 ボルドーまでの往復ではじめて TGB Atlantic に乗ったのだけど、かつてのパリ・ジュネーブ間みたいに、速い区間はちょびっとだけですね。それよりもモンパルナスを出た直後の短いトンネル・ラッシュはなんとかしてほしい。耳がきーんとくるからたまらんわ。


1996年09月13日

 酒は飲めない。とことんあかん。弱さ比べなら負けない自信がある。  それでも酒の話題や酒どころは好きなんである。フランスでも巴里以外で気に入っている場所はブルゴーニュ地方のボーヌ(Beaune)である。
 9月は友人が日本から遊びにきたのをきっかけに、ボルドーに行ってみた。ブルゴーニュが伏見なら、ボルドーは越後みたいなもんだ。街はボルドーのほうがでかいけれども。  行ってみると、ボルドーは巴里からえらく近い。モンパルナス駅から新幹線でほんの3時間ほど。運賃はニッポンの新幹線よりもだいぶ安い。オススメである。  着いた翌日、ボルドー観光協会がやっているバスツアーに参加した。上から二番目のランクのシャトーに二ヶ所訪れた。写真のぶどう畑や建物群、樽の眺めは最初に行ったところ(Haut Medoc地方)のものである。

1996年09月10日

 巴里に十回以上来ている友人が日本から遊びに来た。たいがいのところはすでに訪問済みなので、消去法でユーロ・ディズニーに行ってみることにした。まあ、こちらは子ども連れだし。
 開演以来、フランス人には悪評ぷんぷんだが、それはべつに平均的フランス人の趣味とディズニーランドとがミスマッチをしているだけであって、ここが特別東京ディズニーランドよりもサービスが悪いわけじゃない。評判が悪いときのほうが、アトラクションをすいすい利用できてうれしいくらいだ。でも、スペースマウンテンで不覚にも乗り物酔いをしてしまったが。

1996年09月06日

 うちにある源氏物語フランス語版は、

 Le Dit du Genji, Rene SIEFFERT
 Publications Orientalistes de France

 というやつです。
 全二巻、各700頁ほどもある大作で、十分に枕としても使えます(笑)。いくらだっけかな。たしか 600 FTTC ぐらいだったと思うけど。労力にくらべたら信じられないほどの値段ですね。


1996年09月03日

「une vie familiale normale」あたりにけっこうパスクワ法の影響が出てます。一夫多妻制の国の移民に対して、配偶者としての滞在許可は一人しか認めなくなったんじゃありませんでしたっけ。たしか家族手当でもそういう制約を加えていたように思います。でも逆にいえば、monogamie の国がよくもこれまで polygamie の制度を他国民とはいっても受容してきたな、という思いの方が強いですね。
 今日は日本大使館にあたらしいパスポートを取りに行って来ました。いまの為替レートだと、日本で作ったほうが安かった。でも新パスポートだと発行地が省略されているんですね。ときどき申請書類でパスポート発行地を記入する欄があるけど、大丈夫なのかいな。


1996年09月01日

 パスクワ法に関してはこちらもとばっちりを受けているわけですが、個人的には「フランスみたいに経済力の弱い国が、よくぞこれまで移民や難民をあれだけ受け入れてきたもんだ」という思いの方が強いですね。ニッポンなんて政治難民でさえすぐにアメリカとかに送っていたんですから。
 最近のボスニア「難民」の扱いなんかを見ても、フランスという単位ではなくEUという範囲で要塞化というか「難民お断り」という姿勢を明確にしているな、なんてことを感じます。彼らがこれまで比較的移民を受け入れてきたのは、もちろん旧植民地との関係があっただろうし、難民の受け入れにしても、政治力の確保という意図があったからでしょう。ヨーロッパ人がきれい事で政治をやるはずがないし。だからまあ、ヨーロッパの砦化が進んでいるいまこそ、ニッポンは積極的に難民を受け入れ、国際的な政治力を強めるきっかけにすりゃええのに、なんてことを考えてしまう。
 欧州統合は偉大な実験だとは思いますが(少なくとも、アメリカ独立・フランス大革命後、はじめて近代国家のフレームを再検討しようとするわけですから)、ホンネ部分を考えると、要するに「いちばん強力な砦の範囲はどの程度か」ということを探るだけが目的、という気もしております。



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