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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

1998年03月12日

 ぼくがフランスに住み始めたのは6年前のことで、9年ちょっと勤めていた会社を休職しました(といっても最初から辞めるつもりだったので、2年後には退職)。で、そのときはソフト・ハードの二つのスーツケースに大型トランスなど、合計80キロのかかえてパリにやってきたものの、とりあえずの滞在先は Odeon の二つ星ホテル。なにせパリに着いたらまず家を探すことからしなければならなかったので、文字どおり、完全な根無し草状態でしたね。
 
 べつに学者を目指そうとしたわけでもなく、32歳の当時、年収 900万円という恵まれた状況にあり、仕事にも愛着があり、ことさら環境を一新するべき必然性などはいっさいなかったのですね。いまだに「なぜフランスに留学したのですか?」と聞かれても返事に困ってしまう。「一度外国に、それもパリかニューヨークに住んでみたかったから」と答えているのだけど、本当のところはいまだに明確には答えられない。ただ、サラリーマンが多かれ少なかれ抱いている閉塞感というものに、当時のぼくは堪えられず、いちどなにもかもリセットしてみたい気持ちが強かったのは確かです。まあ、いわばその「はけ口」が渡仏という行為につながったのでしょう。
 
 それにしても、成田での心細さったらなかったですね。ギリギリまで仕事が忙しく、荷物の詰め込みさえも当日の朝おこなったぐらいです。四時半まで会社で仕事をし、五時に帰宅して荷物をパッキングし(なにを持っていくのかを土壇場まで決めてなかったので、カミさんにやってもらうわけにはいかなかった)、風呂にざぶんとつかり、あわただしく家を出たのが7時。カミさんの運転する車のなかで多少の仮眠をしたものの、9時に成田に到着し、10時半には搭乗口へと向かいました。
 
 そのあたりになると、あわただしさも一段落し、かわりに「これからいったいどうなるんだろう」という不安が一気にこみあげてきましたね。「いまならまだ引き返せる」とも思いました。航空機の座席につき、周囲は見知らぬ人たちばかり、そしてパリに着けば、知り合いもおらず、住む場所もないという状態が待っている。不覚にも涙がポロリと落ちました。
 
 ソウルで乗り換えてからは、徹夜続きの疲労もあって、感傷に浸る間もなく寝てばかりいました。で、パリ到着の2時間ほど前、最後の食事のところで、たまたま隣の席に座っていたカップルと雑談するようになりました。この人たちがとても親切で、空港ではぼくの膨大な荷物の一部を運んでくれたり、リムジン降り口の凱旋門ではタクシーまで運んでくれたりしたのですが、オオゲサではなしに、このときの親切で「ああ、なんとかやっていけそうだ」という気持ちになったものです。
 
 人間、不安定な状態にあると、ささいなことですぐ悲観的になることもあれば、急に道が開けたような気分になるじゃないですか。ぼくにとってはそのときのカップルの親切が、気分を逆転させる契機となりました。
 
 いやしかし、パリに住んでも腹の立つことばかりで、もろもろの不条理を遊び心で対応できるようになったのは、まるまる二年滞在してからですね。リラックスして生活を見つめられるようになったのは滞在三年目になってから、94年の夏ぐらいからです。このぐらいから、旅行にも出掛けるようになりましたしね。子どもが生まれたのも滞在三年目の年です。
 
 だからこそ、95年秋に日本に一時的とはいて帰ることになったときも、「絶対パリに戻ってやるぞ」という執念がありました。せっかくおもしろくなってきたところで帰るのが、いかにも未練たらたら、悔しいことだったのですね。で、幸い、自由職業者ビザがあっさりと取れたために、翌年の夏に戻れました。
 
 海外に滞在するのはそれだけでも得難い機会だと思う。ただし、「滞在」を実感するには、最低3年はいなきゃ不十分だという気もします。単純に長ければいいというものではないですが、年月が経つから見えてくる風景・人間関係ってやつもあるでしょう。隣の食料品店のオヤジに、「トイレに行ってくるからちょっと店番しててくれ」なんて頼まれるようになるのも、やっぱ3年目以降ですから。


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