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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
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■ 1999年02月 アーカイブ

1999年02月28日

 正直言って、ハタチころのバリバリのローラー小僧時代だったら、「ど根性!」とばかり最後まで粘ったかもしれないけれど、それもいまや20年前、数ヶ月後に不惑を迎えるワタクシは、身体の安全を最優先させました(笑)。
 それにしても、こういうイベントを受け入れるパリ市は偉い。偏見かもしれないけど、日本の警察だったら歯牙にもかけないんじゃなかろうか。まあ、地方だったら“村おこし”的な意図でやるかもしれないけど、まず東京や京都がそういうことを許可するとは思えない。まあ、さすがに自転車レースで公道を使う習慣のある国、といったところでしょう。


 昨日からうちの通りの向かい5区側でガラクタ市をやっているんだが、ふと気づくと、妙に騒々しい声が聞こえてきた。おまけに天気がいいのに俄雨のような「ざーっ」という音。もしやと思って外を眺めたら、ローラースケーターたちが延々と道を滑っていた。

 日曜は午後2時にバスティーユ集合の parcours があるのだけど、今回はうちの前の通りがコースの一部になっていた、ということですね。いやしかし、見るからにペースがのんびりしている。ああ、これならば付いていけたな(笑)。付き添いの自転車のこぎ方から推計すると、だいたい時速10〜15キロ程度。やっぱ次回は日曜に挑戦しよう(笑)。

 日曜の日中、しかも好天ということもあって、参加者は2000人ぐらいいたようです。列の先頭から最後尾までが通過するのに、10分近くかかってました。


1999年02月26日

 朧月夜となった金曜夜、勇んで行ってはみたものの、結果は……

0, Avenue d'Italie (DEPART 22h00) → Avenue d'Italie → Place d'Italie → Avenue de Choisy → Boulevard Massena → Avenue d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Place Victor Basch → Avenue du Maine → Rue du Depart → Place du 18 Juin 1940 → Boulevard du Montparnasse → Place Leon Paul Fargue → Boulevard des Invalides → Rue de Grenelle → Place des Invalides → Avenue du Marechal Gallieni → Quai d'Orsay

 でダウン(笑)。あえなく途中リタイヤとなってしまいました。
 時間にして23時半ごろ、行程の半分ぐらいってところですかね。もうひと息頑張ろうとも思いかけたのだけど、足の踏ん張りがぜんぜん効かなくなってしまった。 Alexandre III橋のところで靴を脱いだ次第です。それよりも先に行っちゃうと、家からもどんどん離れてしまうし。

 で、帰りはAssemble Nationaleの前あたりでタクシーを拾って帰宅。階段を あがるのもしんどかったから、やっぱリタイヤは正解だった。中国系のタクシーの運転手からは、「スケートかい?」と聞かれました。自宅に着くまでいろいろ話してきたんだけど、なんでもバカンスあけの9月が参加者のピークで、天気のいい日には5000人以上集まるそうな。そういうときは、タクシーの仕事もあがったりだそうです。そりゃそうだなわな。

 この日の参加者は推計 500人といったところ。いやー、思ったよりもペースが速いんだ。のんびり滑っていたらどんどん列の後ろにやられてしまう。けっこう必死に滑りました。
 車道をスケートで滑ったことのある人ならご存じのとおり、路面の凹凸があるんでかなり脚力がいるんですよね。おまけにRue de TolbiacRue d'Alesiaが延々と昇りだったので、これで一気に息があがってしまった。

 途中、Place とか大きな交差点では行進列を縮めるために小休止が入るのだけど、Place Victor Baschでは完全にバテバテ。まあ、その先はモンパルナスまで下り坂だったからなんとか息を整えられたけど、モンパルナス・タワー近辺の売店で水を買っているうちに列の最後尾になってしまった。一応、水は用意したのだけど、25CLボトル一本だったのが敗因でした。

 最後尾になると、スタッフとCRSローラー隊のプレッシャーをもろに受けてしまう。なにしろすぐ横で拡声器を使って「Allez vite !」と煽られちゃう。まあ、小休止の場所でさりげなく先頭近辺に移動すれば、次の小休止までローペースでもついていけたのだけど、Place des Invalidesでは踏ん張りがきかずに転んだこともあって、ああ、もう潮時かなと思った次第です。

 いやしかし、街並みを楽しむゆとりはほとんどなかったけど、車道を堂々と滑れるのは気持ちがいい。路面状態からすれば歩道の方が楽なんだけど、なにせパリの歩道ったら犬のクソがそこいらじゅうにありますから(笑)。毎週日曜午後2時バスティーユ集合・解散の parcours の方がペースは遅いそうです。当分そっちで足慣らしをするかな。

1999年02月25日

 2/26の parcours が pari-roller の webに掲載されていた。
 
40, Avenue d'Italie (DEPART 22h00) → Avenue d'Italie → Place d'Italie → Avenue de Choisy → Boulevard Massena → Avenue d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Place Victor Basch → Avenue du Maine → Rue du Depart → Place du 18 Juin 1940 → Boulevard du Montparnasse→ Place Leon Paul Fargue → Boulevard des Invalides → Rue de Grenelle → Place des Invalides → Avenue du Marechal Gallieni → Quai d'Orsay → Place de la Resistance → Quai Branly → Pont d'Iena → Place de Varsovie → Jardins du Trocadero (escaliers) → Parvis des Libertes et des Droits de l'Homme → Place du Trocadero → Avenue Kleber → Rue de Presbourg→ Avenue des Champs Elysees → Place Clemenceau→ Avenue Winston Churchill → Pont Alexandre III → Quai d'Orsay → Boulevard Saint Germain → Rue Saint Jacques → Boulevard de Port Royal → Boulevard du Montparnasse → Place du 18 Juin 1940 → Rue du Depart → Place Raoul Dautry (pause) → Rue du Depart → Boulevard Edgar Quinet → Boulevard Raspail → Place Denfert Rochereau → Boulevard Saint Jacques → Boulevard Auguste Blanqui → ...et re-Place d'Italie (1h00)
 
 今回は途中で右岸に出てシャンゼリゼを通りますね。ルート的には83番のバス路線とかなり重なる見慣れたコース。これはぜひ滑ってみたい。トロカデロ庭園から広場のところまでは、どうやら階段を昇っていくらしいのだが、先導の白バイはどうするんだろう(笑)。ただ、天気予報では金曜の夜は雨とのこと。

 ところで昨日OVNIを読んでいたら、なんでもバスティーユ起点で別のグループが毎週日曜午後2時からおなじようなイベントをやっているらしい。“La Friday Night Fever”が再び雨天中止になったら、日曜の方に再トライしてみようと思います。でないと日記を書けない(笑)。


1999年02月23日

 「気にせず突っ込め浅いコブ、気合いで突っ込め深いコブ」……とは、コブの名所、兎平ゲレンデをこよなく愛していた八方尾根居候族たちの標語でござった(笑)。その結果、兎平は「ぴょんぴょん平」と呼ばれたわけですが。
 今週はパリの学校が冬休みなので、スキー場もけっこう賑わっているようです。だけどなんかあちこちで大雪で滑走不能になってるみたい。


1999年02月22日

 車道をかなりの範囲に渡って一時的に専有しますから、夜でないと許可がおりないんでしょうね。でも日曜の昼にやったこともあるんじゃないのかな。
 午後10時スタートとはいえ、5月になれば10時でも日中ですから、いまからその季節が楽しみです(笑)。
 足下が暗くてもそれほど影響はないのです。そもそも足下を見て滑るような人は、屋外を滑っちゃいけません(笑)。スキーやアイス・スケートも同じですが、バランス系スポーツのコツは「足下を絶対に見ない」ことですので。
 ローラースケートだと軽く流すときで時速15キロ程度、ハイピッチで滑るときで時速30キロぐらいですので、視点はだいたい5メートル前後先に置いておく。もちろん足下はデコボコしてますが、それへの対策は、いかに正確にスケートに乗っているかってことで、これはスキーなども同じです。
 でもまあ、石畳の上は普通の滑り方などできませんけどね(笑)。極悪路はタップを踏むようにして進っきゃありません。


1999年02月19日

 19日の parcours は……雨天中止となってしまった。
 集合時間の約10分前に家を出て、Place d'Italieまでは靴のまま歩いて行った。上り坂の濡れた一般道なので、スケートで行くのはちょっと怖かったのである。その時の格好は、上はTシャツの上に厚手のシャツ、毛のセーター、そしてカミさんから借りたパーカーといういでたち。パーカーをわざわざ借りたのは、夜なので明るい色の方がいいかな、と思ったからである。去年、シルバーストーン・サーキットで買ったジョーダンGPチームのウィンドブレーカーを着ていこうかとも思ったのだが、色が黒(ハチのマークは入っているが(笑))なのでやめた。

 集合場所のPlace d'Italie Gaumont前には、すでにスケーターが200人ほどたむろしていた。まあ、小雨ということで、集まりが悪いのだろう。車道の脇には先導の白バイ隊と付き添い警護のパリCRSローラー・チームがいた。
 
 スタートまでまだ時間がありそうだったので、たむろしていた人がぼちぼちとウォーミングアップを始めた。ワタクシもさっそくローラースケートにはきかえ、プランタン前の広場で軽く足慣らしを始めた。濡れたアスファルトはさすがに滑りやすく、けっこう転ぶ人も多かった。
 
 そんなこんなで時間はいつのまにか10時半。なかなかスタートせんなと思っていたら、Gaumont前で誰かが拡声器でなにやら話をしていた。こちらは輪の一番外側にいたので、声がまったく聞き取れない。なにがあったのかわからんうちに、たむろしていた人数の半分ぐらいがドドッと移動を始めたので、いよいよスタートかと思い、人の列についていった。
 
 がしかし、一団は Gaumont脇でストップ。そこで15分ほどうだうだと時間が過ぎていったが、10人ほどが離脱して勝手に滑走を始めていった。んー、なんかおかしいなー、と思い、再び Gaumont前に行ってみると、先導するはずの白バイ隊の姿が見えない。ありゃ、ひょっとして中止なのかいなと思い、所在なげに立っているスケーターの一人に聞いたら、今晩は“annule”とのこと。なんだよー、中止になったのに、みんなトグロ巻いてただけなのか。
 
 ……ということで、pari-roller への挑戦は来週に持ち越しとなったのでした。ああ、それにしても、30分ほどの足慣らしでもけっこう筋肉痛が(笑)。


1999年02月18日

 pari-rollerの webにアクセスしたら、19日のコースが掲載されていた。

 40, Avenue d'Italie (DEPART 22h00)
 
Av de Choisy → Bld Massena → Av d'Ivry → Rue de Tolbiac → Rue d'Alesia → Av du Maine → Bld Montparnasse → Bld des Invalides → Esplanade des Invalides → Quai d'Orsay → Quai Branly → Avenue de Suffren → Av de la Motte Piquet → Bld de la Tour Maubourg → Rue de Grenelle → Av GAllieni → Quai d'Orsay → Bld St Germain → Rue St Jacques → Bld du Port Royal → Bld Montparnasse → Rue du Depart → Place Raoul Dautry (pause) → Bld Edgard Quinet → Bld Raspail → Place Denfert Rochereau → Bld St Jacques → Bld Blanqui ...et re-Place d'Italie (1h00)
 
 6区・7区をほぼぐるりとまわるルートである。途中、アンバリッドやエッフェル塔の近くを通過するので、眺めはけっこういいかもしれない。ただ、天気予報では明日の午後は雨なので、んー、降ったらパスだなあ。


1999年02月14日

 PARI ROLLERとは、ローラースケート(といっても実際にはローラーブレードが主流)の愛好家たちの団体である。昨年来、毎週金曜の夜になるとPlace d'Italieで集合し、パリ市内を三時間滑走している。警察が先導して車道上を滑り、行進列の最後尾にはボランティアが自転車でケアするなど、けっこう大がかりな体制で活動がおこなわれている。参加は自由で、多い日には2000人以上のスケーターが集う。
 
 この PARI ROLLERの活動を知ったのは、うちの前の通り(Boulevard de Port Royal)がしばしばコースになっていたからである。毎週金曜深夜になると、俄雨が降ったかのような音が聞こえてくることがあった。何事かと思って外を見たら、膨大な数のスケーター集団がいた、というわけだ。活動の詳細については、後日、OVNIの記事で知った。
 
 小学生時代は、アメリカのローラーゲーム・チーム、LAサンダーバードに熱狂し、学生時代には週末になると代々木公園や駒沢公園で空き缶を並べて滑りまくり、会社員となってからも時折後楽園のリンクで滑走していたワタクシとしては、パリ市内の車道をおおっぴらにスケートで滑るなんてことは、じつに魅力にみちみちたことであった。ああ、足がうずく。年末年始の一時帰国のときは、倉庫をひっくり返し、20年前に買ったスケート靴を引っぱり出し、パリまで持参した。もちろん埃のせいでベアリングまったく転がらなくなっていたが、丹念にグリースをさし、まあ、なんとか滑れるぐらいの状態にした。
 
 とはいえ、十数年のブランクからいきなりアップダウンの激しいオンロードを滑るのはキビシイ。まずは足慣らしを……と思い、今日は近くの公園まで試走しに行ったのである。場所はLuxembourg公園の手前、Avenue d'Observatoireの中にある縦長の公園である。その一角に、長さが50メートル、幅が5メートルほどのアスファルト舗装のエリアがあるんだが、そこでは時折子どもたちがスケートの練習をしている。
 
 ここ数日と同様、この日も朝から晴天。カミさんと子どもの三人連れで公園に向かう。天気のいい日曜ということもあって、公園までの道、けっこう多くの人がローラーブレードを履いて歩道を滑っていた。年齢層はマチマチ。スケートもすっかりパリに定着したのだなと実感したものである。
 
 公園に着いてから、ベンチで靴をはきかえる。エリア内には子どもが十人ほどと、バックパックを背負った大人が一人だけ。スペースは十分なので足慣らしにはちょうどいい。が、さあ滑ろうと思ったら、ムスメがまとわりついて離れない。どうやら一緒に遊んでほしいらしい。まあ、こちらも本格的な滑走ができる状態ではないと思ったので、今日はムスメと戯れながら30分ほど滑った。手を引っ張らせたり、競争したりとか。それでもまあ、けっこう感じが戻ってきたので、次はいきなり金曜夜の三時間パレードに参加してみようかな、などと思っている。


1999年02月11日

 前にちょこっとお話ししたPARI ROLLER、今日、事務局に電話してみたら、留守番電話で次のスケジュールを流すだけで、参加は自由みたい。で、広報用の Webがあります。
 
http://www.pari-roller.com/
 
 原則として毎週金曜夜10時に Place d'Italie 近くの映画館前で集合、週によって違うルートを選択しつつも、夜1時にふたたび Place d'Italie に戻るというスケジュールだそうです。参加は無料で特別な資格も不要。保険も任意みたい。ただ、広報 Webではスポーツ保険への加入を勧めておりましたが。
 アップ・ダウンのあるオンロードで三時間滑走というのはしんどそう。少しどこかで足慣らしを積んでから参加することにしよう。
 フランス国内の patineur が履いているのって、やっぱインラインのブレードが主力なんすよね。靴もプラスチック製のブーツ・タイプ。わしが持っているのは20年前の流行のタイプで、当時は NIKE のナイロン・コルテッツに直接鉄のシャシを固定します。見てくれはいいんだけど、足首のサポートがないんで、足の前部の筋力をえらく酷使するうえに捻挫もしやすい。やっぱ無理は控えよう。


1999年02月10日

 セロテープをスコッチというのは、フランス国内もおなじですよね。
 ただし、日本ではこの「セロテープ」も特定商品名となっており、報道用語としては「セロハンテープ」が正式です。キャタピラとかセスナなども特定商品名で、報道用語としては無限軌道、軽飛行機と書き換えるのが原則になってます。ただし、レーザーディスクのように、商標を持っている側が一般呼称として用いることを認める例もありますが。
 こうした言い替えは、放送ではNHKがとくに厳しく、かつて紅白歌合戦で、みなみこうせつとかぐや姫が「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」を「クレヨン」に言い替えたり、山口百恵が「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に言い替えた例がありました。ほかにもあるんだろうけど、この二例がとくに印象的。
 もちろん以上はマスメディアの現場の話であって、一般の世界ではさまざまな商品名が一般呼称化してますよね。日本でいえばオヤジ世代はコピーのことを「ゼロックス」と言いますし。かつてはティッシュ・ペーパーを「スコッティ」「クリネックス」と呼ぶ人も多かったと思います。
 あ、そうそう、特定商品名で思い出した。アデランスも商品名から日本語化したフランス語ですね。でも adherence の方は「接着」とかって意味が強いし、自動車レース用語でも「グリップ」のことを adherence といいます。


1999年02月09日

 薩摩治郎八については、パリ在住の画家・加藤一さんがときどき講演をおこなってます(『せ・し・ぼん』は加藤さんに依頼されて検索・購入いたしました)。加藤さんは画家になる前は競輪の選手で、ヘルシンキ五輪の代表に内定していたところ、プロ転向によって辞退なさった方です。ドゴール時代にパリに渡り、以来、フランスの自転車選手との親交を深めた結果、日本にツール・ド・フランスを紹介することがかなったそうです。で、そのときにフランス政府との交渉に尽力してくれたのが、やはり薩摩治郎八だとか。
 あとは藤田元嗣のパトロンでもあったそうです<薩摩治郎八。ただし、カネは出すけど口は一切出さないという belle epoque な大旦那芸の持ち主だったそうで、それに恩義を感じた藤田が、Cite Universite 日本館設立の際に自分の絵を寄贈した、という話があるらしい。
 この薩摩治郎八の人生は、本宮ひろ志がマンガにしそうな一生ですね(笑)。生まれ育ったのが神田近くの敷地3万坪の大旗本屋敷。生家は元士族で治郎八の祖父が綿の取引で巨万の富を築き、父は粋人だったそうで、治郎八自身、小さなころから芸者遊びに興じていたそうな(笑)。
 ハタチのころに最初はロンドンに、すぐにパリへと渡り、都合30年間ほどをパリで過ごしたそうな。戦前には数々の文化的功績でレジオン・ドヌールを受勲、第二次大戦中のナチ占領下のフランスにあっては、ドイツの友好国・日本の国民かつレジオン・ドヌール受勲者という立場を活かし(ドイツにもビシー政権にも顔が利く)、数々のフランス系ユダヤ人を助け出したのだそうです。
 で、フランス滞在中はとにかくケタ違いのカネを遊びに使い、総額は現在の貨幣価値に換算すると500億円ぐらいだったらしい。そんなわけで、晩年は禁治産者にされたそうな。亡くなった土地は徳島なので、現在では徳島に「バロン薩摩の会」という集まりがあるそうです。


 Descente といえば、あのグルノーブル五輪の記録映画「白い恋人たち(Treize Jours en France)」のサントラ収録曲のひとつです。当然ながらジャン=クロード・キリーがアルペン三冠王を決めた最後の種目(けっこう疑惑の判定で優勝したのだけど)。ってことがモチーフになりました。他に「キリーのテーマ」という曲も収録されてます。そのキリー、アルベールビルでは大会の実行委員長でしたねえ。
 アルペン三冠王はキリー以降、男女ともにいないけれど(現在は5部門になってしまったし)、一番惜しかったのは80年のレイクプラシッド五輪のハニー・ウェンツェルン(リヒテンシュタイン)でした。たしか金・金・銀だったんじゃないのかな。一昨年、リヒテンシュタインを通過するとき、ああ、ここがあの選手の母国なのかという感慨がありました。
 フランスのアルペン選手では、最近では滑降のクレティエ、回転のアミエなどが有名だけど、オジサン世代には苗場W杯のアイドル、セラが懐かしい(笑)。


1999年02月08日

 新宿だかにフランス風の音にこだわる喫茶店があって、アイスコーヒーのことをわざわざ「Cafe glace カフェ・グラッセ」とまで書いていたので、おお、その意気や好しと思ったのも束の間、数行下に「Tea glace ティー・グラッセ」という表現を見つけてガックリしました。中途半端にこだわるなよぉ。
 Mint a l'eau を「萬太郎」と書く店があったら、それはそれで笑えるが(笑)。
 Cite Universite 日本館の出資者・バロン薩摩こと薩摩治郎八の自伝のタイトルが『せ・し・ぼん』です。


1999年02月07日

 理工系と経済経営とが「分離」している状況は、もしかしたら日本ぐらいのもんかもしれない(細かな比較調査をしているわけじゃないんで推測にとどめますが)。アメリカでも工学部のなかに経営工学の学科が置かれていることは珍しくありませんから。本来であれば、現場→管理職というクライミングが顕著な日本こそ、理工系学部と経済経営コースの合体があってしかるべきなんだけど、そこはそれ、日本では「学校でやることは実社会では役に立たない」というアプリオリな前提が阻んでいるんでしょう。
 でもそんな発想が金融の弱体化につながったんじゃないのかなあ。アメリカやイギリスの腕利きディーラーって、たいていは学部は理学部か工学部の情報工学系、大学院は経済経営系って人たちだもんね。先日、日本に滞在していたとき、デリバティブ商品のシステム開発をやってる元同僚と話す機会があったんだけど、彼も理数系出身で、いまの金融商品は超関数(といってもシュヴァルツの distribution の方)を理解しないと開発不能だなんて言ってた。
 その点では、アメリカもフランスも理数系の「価値」を(少なくとも平均的な日本企業経営者よりも)評価しているような印象があります。


1999年02月06日

 その後思いついたフランス語起源の言葉を少々。
 
 ルポルタージュ(ルポ)reportage
 サボタージュ(サボる)sabotage
 エスプリ   esprit
 テアトル   theatre
 アトリエ   atelier
 デジャヴュ  deja-vu
 メトロ    metro(こりゃいちばん一般的だ)
 ディスクール discours
 オマージュ  omage


 路線によっては夜遅くてもそれほど怖くないのですけどね>メトロ。たとえば Gerge V からメトロ1番に乗って Palais Royal から7番に乗り換えて Place d'Italie までというのなら、まあ、それほど抵抗感はない。だけどメトロ4番で Les Halles よりも北に行くっていうのは、9時ぐらいでもちょっと緊張するかも。遅い時間ほどバスが正解でしょうね。
 ローラースケートはベアリングにすっかりと錆が出たらしく、グリースを差して円滑化をはかっています。


1999年02月05日

 なにせ92年は RER A線で Cergyまで通っていましたから、いやでも真っ先に慣れてしまいましたがな。日によっては Cergy Prefecture を夜11時ごろに出ることもあったのだけど、郊外の夜の RER駅は、慣れていてもやっぱ怖いもんです。
 1月31日に日本からパリに戻ってきたのだけれど、家族3人だったので空港からは迷わずにタクシー。で、periまでは順調に行ったのに、そこからがなぜか bouchon。運転手によれば、でかい manif が三つあったので、市内の幹線道路が大混雑してるとのこと。2月はデモの季節じゃないだろうがと尋ねたら、なんでも PACS の反対デモがあったのですってね。ありゃりゃ、あの法案、まだ通過しとらんかったのか。
 今回は日本からローラースケートを持参してきたので、少し足慣らしをしてから、PARI ROLLER に参加しようともくろんでます(笑)。集合場所は Place d'Italie で、うちの前の道を使うことも多いんすね。道路を専有して2000人のローラースケーター集団を眺めるたびに(警備の警官もローラースケート(笑))、20年前に代々木公園で空き缶を並べて滑っていた時代を思い出してしまったのだ(笑)。


 日本語化された身近なフランス語なら、圧倒的に多い料理・美術・ファッション&エステ・音楽方面以外では……

 クーデタ      coup d'etat
 コミュニケ     communique
 レジュメ      resume
 ルネサンス     renaissance
 レゾン・デートル  raison d'etre
 シャッポ(を脱ぐ) chapeau
 ぽち(犬の名前)  petit(これは変なフランス語か(笑))
 グランプリ     grand prix
 コンテ       conte
 マリオネット    marionette

 あたりがとっさに思いついたところですねえ。


1999年02月03日

 『個人教授』は何度も見ました。あの映画でレーサーの男がパリ市内で走らせていた車(渋滞のせいで、ルノ・ベルレーが原付で簡単に追いついちゃったやつですね)、たしかランボルギーニ・ミウラだったんじゃなかろうか。イタリアのガンディーニがデザインした、おそらくは史上最も美しい市販車(といっても、いわゆるスーパーカーだけど(笑))ですね。
 その後はフェラーリをデザインしたピニンファリーナの方が有名になったけれど、ファリーナに大きな影響を与えたのが、ガンディーニのミウラ、なんていわれてます。確かに雰囲気自体、ミウラはフェラーリっぽい(本当は反対なわけなんだけどね(笑))。パリ市内でも時折ランボルギーニ・ディアブロが走っているけれど、こちらはなんかメカゴジラのようで、ミウラの面影は皆無(;_;)。


1999年02月02日

 重い荷物をかかえているのなら、いっそ最初からタクシーで行ってしまうのがベストだと思います。空港からリヨン駅までであれば、平日の午後7時までであれば220フラン前後だし、日曜や午後7時以降であれば250フランぐらいでしょう(混雑状況によって1割ぐらいの違いはありますが)。
 公共交通機関を使う方法であれば、

 ■空港→Opera(ROISSYBUS)、Opera →Lyon(タクシー)
 ■空港→Opera(ROISSYBUS)、Auber →Lyon(RER A線)
 ■空港→Chatelet(RER B線)、Chatelet →Lyon(RER A線)

 Chatelet駅での RER B線からA線への乗り換えはすぐです。もしかしたらおなじホームの反対側の voie だったかもしれない。
 経費節約を目指すのであれば、RER のみを利用するルートがいいでしょう。ただし、空港の到着ターミナルが CDG1 の方だとシャトル(navette)に乗って RERの駅まで移動しなくてはいけません。CDG2 だったら空港内を移動するだけで駅まで行けるのですが。
 メトロで移動するにも RER で移動するにも、改札を通過するのがけっこう面倒だったりするし(RER の駅は切符を通さないと出られません)、駅構内での移動も階段の昇り降りがありますので、重い荷物があるときはかなりナンギです。
 その点、ROISSYBUSなら荷物の上げ下ろしはバスに乗降するときだけですみますが、Opera からの移動は結局バス、メトロまたはタクシーを利用しないといけない。タクシーを使うとなると、タクシー乗り場まで移動するか、流しの車をつかまえねばなりませんよね。それくらいなら、空港からタクシーで移動した方が、出費は100フランほど増えるけれども、はるかに合理的だと思います。荷物をかかえた旅行者は、ひったくりの標的になりやすいことも留意しておいてください。



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