過去の日記一覧
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この日記について
この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。 2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。 2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。 1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。 1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。 |
1992年も11月に入り、ようやくカミさんが来仏した。ビザの関係で、わたしに遅れること約4ヶ月半である。フランスは留学生の受け入れには寛大なので、留学生ビザは比較的簡単に取得できる。ところが家族ビザとなると、不法就労対策のために手続きがはるかに面倒なのである。とりわけ学生が家族を呼び寄せるには、その学生本人が滞在許可証を保持していることが前提となるのだ。したがって、カミさんの分の家族ビザを申請できる状態になったのは、わたしが滞在許可を得た7月末なのである。そして申請から実際にビザが下りるまでには通常3ヶ月かかるため、11月に入ってようやく渡仏できるようになった、というわけである。
異国で生活をはじめたわたしもたいへんだったが、日本に残ったカミさんも相当な激務に追われていたらしい。なにしろわたしは出発当日の午前5時まで仕事をしていた。成田に向かうべく家を出たのは午前7時前である。ほぼ完徹の状態だったのだ。土壇場まで仕事に追われていたため、引っ越しの手伝いなどできなかった。したがって、わたしがフランスに発ったあとは、すべてカミさん一人が荷造りをしなければならなかったのだ。その他、役所への届けでその他もろもろの事務手続き一切合切を、結局はカミさんに押しつけた形となってしまった。
それはさておき、11月に入ってようやく、4ヶ月半ぶりに夫婦そろって生活できるようになった。住環境はすばらしいし、アパートも快適だったので、異国での生活は東京時代よりもむしろ快適な面も多々あった。なにより、多忙なサラリーマン時代は生活はほとんどすれ違いだったが、巴里では二人で共有する時間が格段に長くなった。ただ、ダンナの方は年がら年中パソコンにしがみついていたので、それはそれで家庭内別離を生み出してしまったかもしれない。
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