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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

2006年02月03日

 NIFTY-Serve外国語フォーラムのなかには、すでに1989年の時点でジュネーブから接続に成功していた人がいた。しかし、その時点ではまだ本格的な国際データ通信で日本語を扱うことができなかった制約があったため、海外に長期滞在し、なおかつ日本のパソコン通信にも日常的にアクセスする人の数は、米国以外ではきわめて少なかったはずである。その例外的な数のなかにわたしが含まれていたわけで、巴里から外国語フォーラムとのコミュニケーションは、わたしだけではなく当時のフォーラム会員にとっても、一種の実験的な出来事であったといっていい。
 会員数が全体では100万人を超えていたとはいえ、外国語フォーラムを日常的に利用する人の数は数百人レベル、そのなかでフランス語会議室を積極的に利用していた人となると、おそらくは常時数十人といったところだろう。その後のインターネットの巨大掲示板に比べれば、きわめて限定的な「仲間内」の世界であったといっていいと思う。ゆえに、電子会議室でのメッセージは、10人規模のメーリングリストにも似た私的な雰囲気を濃厚に持ち合わせている。
 1992年も8月に入ると、わたしの通学先も語学学校から大学院のサマースクールに替わる。日常的に交流する相手は、おなじ外国人からフランス人やフランス語圏の人間たちとなった。そのような状況で、外国語フォーラムで出るフランス語やフランス文化に関する疑問や質問をわたしが友人に尋ね、それをフォーラムで発表するといったコミュニケーションが活発になった。
 わたし自身、異文化圏での発見を伝えるのが楽しかったし、それに対する反応がダイレクトにわかったので、ますます多くの事を知り、そして伝えようと思った。それだけでなく、こちらがつっかえたことを電子会議室で伝えると、多くの人から助言や励ましをもらうことができた。実際、サマースクールの法学の授業では、辞書にも載っていない専門用語が多々使われていたが、その意味するところを教えてくれたのは当時のフランス語会議室のメンバーだった。
 わたしは巴里において日本人コミュニティに浸るということがなかった。というか、企業駐在員でもなく、しかも教授や先輩のつながりで訪れた留学生でもないため、巴里の日本人コミュニティとの接点がなかったのだ。それでも孤独に陥らずにすんだのは、通信ネットワークを用いたコミュニケーションのおかげである。
 8月には所用で日本に一週間ほど一時帰国することとなった。その折りに外国語フォーラムの常連メンバーたちと会う機会を持つことができた。


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