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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。
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■ 2006年03月 アーカイブ

2006年03月27日

 パリ市内は案外と起伏に富んだ地形である。凱旋門とパンテオンが丘の頂に位置するので、そこを通過する道、たとえばシャンゼリゼとかサンミッシェルなどの通りは、スケーティングにはけっこうしんどい坂なのだ。
 
 pari-roller初挑戦のときは、70年代末に流行したスニーカータイプのローラースケートを使ったのだが、これではアウトドアのオンロードは歯が立たない。道路というのはけっこうでこぼこしていて、しかもヨーロッパだと石畳の区画があちこちにある。通常のスケートはホイール径が小さいので、細かなでこぼこの衝撃を吸収しきれず、その分、コントロールが難しく、すぐに足が疲労してしまう。その点、インライン・スケートはホイール径がはるかに大きいし、キック時にホイール四本を通じて地面に力を伝えられるので、上り坂の滑走力が違う。パリのようにアップダウンが多く、しかもでこぼこの路面上を滑るとなると、インライン・スケートでないと厳しい。
 
 pari-rollerで巡回するルートは、パリの繁華街や観光スポットがいくつも含まれる。これまでに何度も訪れた場所ばかりだが、車道から、しかもスケーティングの速度、スケーティング姿勢からの視野は、観光客が眺める街並みとは違う景色を味あわせてくれるのだ。こういうスケーター目線を経験できるのも、pari-roller参加の特権だろう。


2006年03月26日

回想SFR

 フランスの携帯電話に加入したのは96年11月のこと。業者はSFRというところで、フランス・テレコム系のitinerisと並ぶ大手である。どうしても必要というわけではなかったが、カフェで仕事をする機会が多いので、あれば便利だろうと思ったのだ。
 電話機はPanasonic製だが、日本のものに比べてかなりチャチな感じがする。もちろんPanasonicの責任ではなく、フランスの消費者にとってはこの程度で十分なのだろう。しかし、連続待ち受け時間が16時間、連続通話可能時間が10分とあっては、かなり使いづらいといわざるをえない。いちどの外出で一回使えればいい、という割り切りなのだろうか。
 ただし、GSM規格なので、フランス国内だけでなくヨーロッパのほぼ全域で利用できるのはありがたい。ドイツやベルギーを旅行する機会があるだろうから、これで連絡がストップすることを避けられる。


2006年03月25日

 96年10月、アメリカのホスティング業者と契約して独自ドメインを取得するとともに、レンタルサーバーを借りた。このとき取得したドメインが「fbook.com」である。
 このころ、インターネットを利用するというのは、日本でもフランスでも、プロバイダと契約してPPPで一時的にアクセスするというのが一般的であった。自分のwebページを開設するのでも、プロバイダのドメイン内に自分用のディレクトリを持つのが普通だった。その一方、アメリカでは一般個人が独自のドメインを取得し、業者からサーバーを借りて自分のドメインを管理する方法が広がり始めていた。こちらのメリットは、自分の好きなドメイン名を使用できることや、自分でメールアドレスをいくつも設定できることである。
日本でも個人がドメインを取得することは不可能ではなかった。しかし、アメリカに比べてドメインの管理料が高く、さらに、会社オーナーでないかぎり、手続きが非常に面倒だったのである。
 わたしも当初は自分のドメインを持とうと思ったことはなかったが、師匠の武井さんがアメリカのホスティング業者を利用して自分のドメインを取得したのを見て、おなじ業者にさっそく申し込んでみた次第である。Digiwebという業者で、武井さんによれば、その時点で最もコストパフォーマンスがよいとされるところだった。
 webを制作するために、最初はAdobeのPageMillというソフトを使った。しかし、html文法自体がそれほど複雑なものではなかったので、すぐにタグを直接埋め込む方法に転換した。あちこちのwebを眺め、気に入ったレイアウトに出会ったとき、そのページのリソースをダウンロードして使用しているタグを解析したのである。お手本になることが多かったのは、やはり武井さんのwebページだった。


2006年03月24日

 フランスでワインとくれば、ボルドーとブルゴーニュが二大産地である……なんてことはあたりまえの話。昨年、はじめてブルゴーニュ地方を訪れ、起伏に富んだ地形の美しさが印象的だった。今年はこんどはボルドーを旅行したのだが、ブルゴーニュとは地形がまったく異なり、えらく平坦な畑が延々と広がっているのである。
 ただ、ぶどうの大量生産を考えれば、あきらかにボルドーのほうが有利だ。そりゃ日当たりがどこもいいのだから。ブルゴーニュの場合、南向きの開けた斜面なら平坦地以上に日照の条件はいいが、逆に、斜面によってはハズレもあるということだ。だから、ブルゴーニュ・ワインはdomaineまでチェックしないとダメなんだ、という話を、以前、ワインの好きな人に聞いたことがあるのだが、ボルドーとブルゴーニュの両方に行ってみれば、当然納得のできることである。


2006年03月23日

 なにかと評判の悪いユーロ・ディズニー、それが子どもっぽいかどうかは趣味の問題だと思うが、間違いなくいえることは、設備がちゃちっぽく見えること。街並みも城も、できそこないのハリボテぐらいにしか見えないのだ(実際にそうなのかもしれないけど)。これはディズニーのせいなのではなく、ヨーロッパの古い都市に置かれたことが最大の問題だろう。だって、街に出るだけで本物が現役で使われているのだから、ディズニーランドの設備が安っぽく見えたところで仕方がない。まさか本物のお城を改造するわけにもいかないだろうし。このテーマパーク、やはり日本とかアメリカに置かれるのでないと、魅力を発揮できないのでは。ヨーロッパに造るなら、本格的なダンジョン&ドラゴンの仕掛けにするとかね。


2006年03月22日

 学生以外の身分でフランスに滞在する場合、社会保障の加入がひとつの条件となる。企業駐在員であれば、社会保障関係はすべて会社側の対応でなんとかなるが、自由職業者は自分の加入する団体をみつけるところから始めなければならない。フランスの年金制度は健保と完全に連動しているので、社会保障に加入できなければ保険も使えないということだ。もっとも、外国人であれば、その場合は旅行保険を利用すればいいわけだが。
 1996年8月にわたしが加入しようとしたのはAGESSAという団体で、これは収入の中心が印税という文芸家を対象にした保険組合である。保険料が他の団体よりも数パーセント安いうえに、一種の職能団体でもあるので、ここに加入すれば滞在許可申請のときの職業身分の立証にも有利になるのでは、と考えたのだ。
 加入の条件はただひとつだった。納税証明書をそろえること。納税台帳登録は滞在許可申請のためにやらねばならないことだったが、AGESSAに加入するためには、過去2年分の納税証明書が必要となる。わたしの場合、フランス滞在中に印税収入が実際に発生したのだから、たとえそれが日本の会社からの収入であっても税務申告はできる、というのがAGESSA側の主張だった。それに対し、フランス国外の企業からの収入だから税務申告はできない、というのが税務署側の当初の主張だった。税務署が「申告できない」というのも、ずいぶんと奇妙な話ではある。結局、税務署の上の人間の判断で、めでたく過去にさかのぼって台帳登録を果たせることになった。


2006年03月21日

 1996年の7月、学生として滞在していた3年間の第1ラウンドから8ヶ月半後、こんどは自由職業者として滞在する第2ラウンドが始まる。滞在許可を取るまでの手続きは前回よりもかなり面倒だが、今回の滞在の方が気分的には比較にならないぐらい楽だ。フランスに到着したその日から、すぐに生活を開始できるだけの基盤ばある。前回は一週間のホテル住まいの間に住むところを決めねばならなかったのだ。そして3年間の滞在でフランスに友人・知人が増えた。話し相手すらいなかった前回とは大違いである。なによりの違いは、フランス語での交渉力がついたことだろう。語学レベルは8ヶ月半のブランクでむしろ落ちたくらいだと思うが、ずうずうしく交渉を続ける粘りは92年当時とは比較にならない。なんにせよ、どれほど面倒な手続きが待っていようと、大きな不安はなかった。
 しかし、その手続きの煩雑さは、正直なところ、想像を絶していた。おまけに役所の対応もあやふやで(あまりないケースだったので仕方ないと思うが)、書類ひとつ入手するのに何度も交渉を重ねることがめずらしくなかった。過去数年で鍛えた交渉力がなかったら、途中で挫折していたかもしれない。


2006年03月20日

 1996年6月、visaが下りて、あとは出発の準備に入ったわけだが、海外への長期滞在となると、通常の引っ越しとはだいぶ様子は違う。日本で使っている家具をなんとかしなければならないのだ。車のこともあるし。
 前回92年の引っ越し時には、アパートは会社の後輩が引き続き住み、家具も我々のものをしばらく使ってもらっていた。彼らは2年後に転居することになったのだが、その際に我らの家具は姉夫婦のマンションに置かせてもらった。姉夫婦が転居し、それまでに住んでいたマンションは一時的に荷物置き場兼出張時の寝床に使うことになっていたので、こちらの家具も一室にまとめて置かせてもらうことができたのだ。使っていた車は会社の後輩に預けた。
 95年の帰国時には、これら預けていた家具や車を引き取るだけでよかった。しかし、そのわずか一年後となると、もう一度預けなおせばいい、というわけにはいかない。
 さいわい、友人の一人が結婚して神奈川県内に引っ越すことになった。そこで彼らに家具付きで部屋を貸そうかと申し出たところ、向こうもなるべく出費を抑えたいということで、申し出を受けてくれた。自動車は別の知人が通勤用に使ってくれることになった。
 フランスに永住すると決めてしまえば、日本での家財道具はすべて処分してしまえばいい。しかし、数年で再び帰ってくる可能性が高いので、生活のインフラをすべて一掃するわけにはいかない。ゼロから買いそろえたら、とんでもない出費になってしまう。このときも幸運な巡り合わせに助けられ、なんとか日本に戻ってからも生活には困らない体制を整えることができた。


 NHKのドラマ・ページを見たら、「ちゅらさん4」の制作が発表されていた。まあ、だいぶ以前から話には聞いていたので、なにをいまごろという感じもしたが、それはさておき、パート4まで制作されるというのは、朝ドラでは類がない。この調子で、朝ドラ史上初の「続ちゅらさん」を実現してほしいものである(笑)。
 さて、現在放映中の「風のハルカ」だが、いよいよあと二週間を残すところとなった。話の進捗の雰囲気としては「残り四週間」ぐらいの感じなので、最後にどういう展開になるのか、細かなところが予想できない。かなり急テンポで話は進むだろうから、久々にビデオ録画でもするかな(笑)。
 ヒロインの村川絵梨は、回を追うごとに感じが良くなってきましたね。最初のころは華がなくって、完全に真矢みきの宝塚臭に食われた感じでしたけど、途中から独特のテンポで存在感を発揮してくれたように思います。今回は演技が臭い役者が多かったので(ただし、臭さがそれぞれに違ったので、ハーモニーとしては悪くはなかった)、シロウトっぽさが新鮮に映ったのもよし。松岡充との組み合わせが正解でしたね。
 オレの周囲では「風のハルカ」はそれほど評判はよくないのだけど、けっこういい部類だと思う。過去10年の朝ドラでは、「ちゅらさん」「あすか」「てるてる家族」の次ぐらいには挙げていいと思うのだけど。このまますんなりと終われば、という条件付きですけどね。「さくら」みたいに、最後でダレダレという可能性もまだ残ってはいるので、この評価はあくまでも現時点でのという限定付きです(笑)。
 しかし、このドラマで藤竜也の認識がガラリと変わってしまった。どうしても「愛のコリーダ」とか「時間ですよ大正編」の印象が強かったのです。こんなにとぼけた田舎オヤジも演じられるんだ。


2006年03月19日

 1996年5月、自由職業者のvisaが下りた。あっけなく、といっていいぐらい、スムーズに下りた。もちろん、書類を揃えるのはたいへんだったが、正直なところ、いちどで通るとは思っていなかったのである。これで再渡仏の準備を予定よりも早めなくてはいけなくなった。
 それにしても、今回の手続きで対応をしたフランス大使館領事部の職員の傲慢さは、いま思い出しても腹立たしい。もともとフランス大使館内に対応のいい日本人職員を見た試しがないが(何度か接するうちに、多少は柔らかな応対をする職員はいたが)、今回の職員のひどさは特筆ものである。何度、横っ面をはり倒したくなったかわからない。
 口のききかたが悪いとか、顔つきがケンノンなぐらいは我慢できる……というか、こういう機関の職員なら、さもありなんぐらいには思っている。ところがこやつの場合、用意するべき書類の部数といった基本的な説明がコロコロ変わるわ、受付終了時間前なのに、間に合いっこないから出直せと言いはなったりするわ、職員としての基本的な姿勢がなっていない。それで可愛い気がないとくれば、こちらの不快感が増すばかりである。
 フランスで滞在許可証を担当する役人の対応もひどく傲慢である。対応もけっこう気まぐれだ。まさか領事部の職員は、それがフランスのお役所仕事の標準だと思っていたわけではないだろうに。


2006年03月18日

 学生時代にすっかりと信州にハマってしまった。もともと母方が信州の出身なので、小さなころからなんとなく憧れのようなイメージは抱いていた。学生時代にちょくちょく訪れる機会があり、住民でもないのに一年の四分の一ぐらいを信州で過ごすようにまでなってしまった。信州全体を巡りきったが、何度行ってもその都度感激が違う。
 最大の魅力のひとつは「花」だと思う。桜の花見なんて、数ある花の楽しみ方のひとつにすぎない。信州の場合、まずは4月に更埴の森の杏から花シーズンが始まり、高遠の桜、5月の連休ごろから篠ノ井線沿いや千曲川沿いであちこちで、桃、リンゴ、梨が花開き、北竜湖や野沢温泉方面で菜の花畑が広がり、下旬には鬼無里でミズバショウが見頃になる。6月に入れば上高地・乗鞍でスモモ、スズラン、ケショウヤナギ、そしてニリンソウが見ごろに。7月上旬には霧ヶ峰高原でニッコウキスゲが咲き誇り、8月には八方尾根で高山植物が見られる。五ヶ月間、いろいろな花を満喫できるわけだ。それが終われば紅葉シーズン到来なので、ほんと、一年中目を楽しませてくれる。


2006年03月17日

 1996年3月のこと。なぜか神奈川県以南が雲に覆われ続けたため、なかなか百武彗星を見に行くことができなかった。最後は我慢ができず、双眼鏡を車に積み、見えるところまで北上することに決めて家を出たのだが、国道16号線の八王子の手前あたりで雲が切れ始め、圏央道に乗った直後ぐらいに彗星の姿を確認することができた。自動車の窓越しに視認できたのだから、本当に明るい彗星だ。すぐに高速の非常駐車帯に車を停め、双眼鏡で彗星を確認したのである。
 ここまで「必死」になったというのも、じつは大彗星を見たことが一度もなかったから、なのだ。中学1年生のときから星空を眺めるのが好きで、夜中まで天体望遠鏡で星雲や星団を観望していたというのに、彗星とはなかなか縁がなかった。1970年のベネット彗星は、まだ星に興味がなかったのでパス。1973年のコホーテク彗星は空振りに終わった。1974年のウェスト彗星は休みが折り合わすに行けず。1986年のハレー彗星は地球との位置関係が悪くてイマイチ……という展開だったのである。今回の百武彗星は、観測条件といいこちらの時間的余裕といい、待ちに待ったチャンスだったのだ。これを逃したら、雄大な尾をひく彗星など二度とお目にかかれないのでは、とさえ思ったくらいである。
 入間の空き地で眺めた百武彗星はしっかりと記憶に刻まれた。双眼鏡で見た頭部は、しっかりとしたコアと、それをぼんやりとおおうコマとの対比が印象的だった。しかし、もっと暗い空では、天の東から西にまで達する雄大な尾が視認できたと後から聞き、入間ではなく八ヶ岳まで行けば良かった、と少し後悔している。


2006年03月16日

 95年の夏頃からデジカメを使うようになった。機種はAppleのQuickTake 100というもの。価格は数万円ぐらいはしたと記憶している。解像度は320×240、記録方式は内蔵メモリだけ。CCDは30万画素程度であった。画像をパソコンに転送するときは、RS422ケーブルでデジカメ本体とMacとをつないで専用ソフトで呼び出す。本体は小さな双眼鏡ぐらいの大きさであった。その後のデジカメに比べれば、お話にならないぐらいチャチで扱いにくいものだったが、それでもわたしには画期的に思えたのである。
 写真を電子的に撮影して記録する仕組みは、80年代終わりにもすでに商品化されていた。電子スチールカメラと呼ばれたもので、2.5インチのビデオフロッピーに記録する方式である。画像はアナログ記録であったため、パソコンではなく一般のテレビに映し出すことを前提にしていた。カメラが再生機を兼ねていた。ほとんど普及することはなかったが、学会関係者の一部には好評だったようである。
 時代は移り、1995年にWindows 95ブームが起きると、どの家庭にもパソコンが普及しつつあった。となると、パソコンで写真画像を見る仕組みが浸透する余地が生じてきたのである。デジカメとは、そういうタイミングに登場した商品なのだ。
 95年の夏、わたしはKodakのDC40という機種を購入した。このカメラの画質が想像以上に良く、パソコンの画面上で眺める分には十分に使えると確信した。ノートブックがあれば、その場で写した写真を見せることもできるわけだ。撮った写真をレタッチソフトで「修正」すれば、いろいろと遊べる。さっそくデジカメの遊び方をひとつの出版企画にまとめ、メディア・テック出版に持ち込んだのである。
この企画は社長も編集部長も気に入ってくれて、すぐに採用となった。そして96年2月に刊行されたのである。おそらくはこれが日本で最初のデジカメ本だったと思うが、その後すぐに他社からも刊行された。


2006年03月15日

 日本で携帯電話に加入したのは95年のことだったと記憶している。秋葉原の石丸電気で電話機を購入し、同時に加入手続きをおこなったのだが、たしか4万円ぐらいかかった。当時の携帯電話はまだアナログ方式だった。連続待ち受け時間は30時間、連続通話可能時間は30分程度で、ちょっと長電話をしようものなら、途中でバッテリーがあがる、なんて可能性もあったわけだ。もちろん、基本料金・通話料金ともに高かったので、携帯で長電話をするなんてことは考えられなかったが。
 95-96年当時だと、むしろポケベルの普及がいちじるしかったように記憶している。友人のライターでも持っている人は多かったし、なにより女子高校生の普及率がすごかった。ベル・トークなんて使い方もあったはずだ。それだけ広がりを見せていたシステムが、結局その後は携帯電話に吸収されたわけだが、かえってそれが携帯の爆発的な広がりを実感させてくれる。
 通信に関しては日本やアメリカに大きく出遅れるフランスでも、徐々に携帯電話のセールスが目に付くようになってきた。街中の電気店やカー用品ショップに、携帯電話が並ぶようになったのだ。日本よりもペースは遅いだろうが、いずれは普及するのだろうと感じたものである。


2006年03月14日

 結局、1995年10月下旬にフランスから帰国した。ただ、アパートやら電気・電話の契約はそのまま残し、近所に住む友人に留守中の管理を頼んだ。一年以内に自由職業者のビザを取って復帰したいと考えている。それはさておき、日本に帰国後、パリでは史上最大規模の交通ゼネストが起きた。おまけにパリ市民の多くがストを支持しているので、じつに一ヶ月ものあいだ、公共交通機関がストップしたのである。日本ではちょっと考えられない。たしかに昔は5月になると国鉄がストを決行し、「スト権スト」のときなんかは、一週間近くもストップしたことはあったが、パリでは一ヶ月である。
 まあ、パリという街は案外と小さいし、職住混在環境なので、ストが起きても東京とは状況が異なるのも確かだ。そしてこの一ヶ月の長期ストの間に、パリ市民の多くは自転車やローラースケートで通勤したのだとか。こういう光景、そうめったに見られるチャンスはないので、そんなときに日本に戻ってしまったのはちょっと残念。


2006年03月13日

 近所にローマ時代の遺跡があって、しかもまだ普通に公園として使われていることを知ったときには、けっこうショックがあった。昨年、南仏を旅行したときにも、ローマ時代の円形競技場がいくつも現役の集会施設として使われていることに驚いた。1500年以上も昔に造られた施設がまだまだ現役なのだからね。これはすごい。
 でも、考えてみれば、こういう設備は多くの人が使うために造られたのであって、遠くから眺めるためのものではない。何百年経過しようと、現役で使われてこと価値があるわけだ。そうはいっても、大昔の施設を何気なく日常の生活空間に組み込めるというのは、けっこううらやましいと思う。


2006年03月12日

 1995年8月のこと。パリに引っ越してきたのが92年6月末だったので、これで四度目の夏を迎えたことになる。もしかしたら、住民として迎える最後の夏かもしれないが。
 結局、革命記念日の軍事パレードをいちども見に行かなかった。でも、ポンピドーに住んでいたときには戦闘機やヘリが頭上を通過するのがわかった。そしてGobelinsに越してからも、我が家のアパートの裏側にあるアラゴ通りをパレード帰りの装甲車などが通ので、一応、車列を見ることもできた。
 この装甲車が通るときの音がすさまじかった。一瞬、地鳴りかと思ったくらいである。なので、てっきり大型の戦車が通過したのかと思ったが、考えてみたら、そんなものが通ったら通りの舗装がボロボロになってしまう。


2006年03月11日

 1995年の7月のこと。Sorbonne NouvelleのDEAコース、もう一年延長しようと思えばできるのだが、ここでリタイヤすることに決めた。たしかに文科系の課程は試験にしてもレポートにしても負担は大きいが、内容的にできないことではない。それなりに時間を投入すれば、あと一年の延長で確実にDEAは取れると思う。だけど、その上のdoctratとなると、ちょっと自信がない……というか、それを目指すには、仕事面で多くのことを犠牲にする必要がある。それほどのメリットがあるとは思えないのだ。doctratを目指すのでなければDEAに固執するメリットもない。一昨年、すでにESSECでMSを取っているのだから、ここで学位コレクションに励んでも仕方がない。
 ……ということで、留学はこれで一区切り。そうなると、滞在身分を学生では更新できなくなるので、この夏のうちに、パリを引き払って完全帰国するか、それとも自由職業者の身分での滞在に切り替えるかを考えなければならなくなる。いずれにしても、秋にはいちど日本に戻らなければならないだろうが。


2006年03月10日

 日本にいるあいだは、ジューン・ブライドがなぜシアワセになれるのか、まったく理解できなかった。6月といえば梅雨のイメージが強いので、6月自体にあまり肯定的な印象を持てない。もちろん、国が違えば気候風土も違うのだから、6月が最高の季節というところはあるだろうし、そういう土地なら6月の花嫁はみんなに祝福されるに違いない。
 で、実際にヨーロッパのベスト・シーズンは間違いなく6月である。暑すぎず、寒からず。気温が適度に過ごしやすいし、適度に乾燥している。なにより天気が安定している。だいたい朝はスカっとした晴天で、街路樹がきれいに茂っているので、外を歩いているだけでウキウキした気分になれる。日没は午後10時過ぎなので、太陽さんさんの時間がほぼ丸一日続く感じなのだ。これだけ長時間、太陽光線を浴びていれば、ハイテンションな気分になることは間違いない。
 考えてみれば、日本だって6月はいい季節なのだ。学生時代、あちこちにいちばん出かけた季節は、6月と10月だった。6月の信州は、とりわけ新緑が綺麗なのだな。かつては紅葉に比べて新緑など地味だと決め込んでいたが、上高地や乗鞍の緑のグラデーションを見てから、意見はガラリと変わった。6月の早朝の上高地なんて、本当に「神のいる高地」という感じだ。
 ただ、やっぱり都会だと6月はうっとうしい。湿気が一気に高まるし、サラリーマンにとっては祝日のない季節でもある。新年度の仕事もぼちぼち忙しくなるころだし。やっぱり日本では6月にシアワセなイメージを求めるのは無理なんだろうな。


2006年03月09日

 1995年5月、あらたに首相となったアラン・ジュペ、見るからにエリートだが経歴もエリートの典型だ。ENAでは首席だったそうな。そのENA時代、当時のシラク首相の演説草稿を書いていたらしい。
 先の大統領選挙のおりには、ジョスパン候補にはドロール元EC委員長、バラデュール候補にはパスクワ前内相、そしてシラク候補にはアラン・ジュペが応援演説などをおこなっていた。このなかでアラン・ジュペは最も若く、そして経歴的には他の人たちよりも劣っていたはずだが、演説はジュペがいちばんうまかったと思う。とにかく論理的な説得力があった。
 ジュペの話し方は、すごく早口なのだけど、言葉のつながりが整然としているので、われら外国人でも十分に聞き取れる。ゆっくりとしたリズムで語りかけるシラク節とは異なるが、わかりやすい話し方といっていいだろう。それに対し、ドロール元委員長は声がかすれ、しかもやや迂遠な表現があるため、誠実な感じはするのだけど強さが感じられない。大統領選の決選投票前にドロールとジュペの論戦が行われたが、ジュペの方が優勢に思われた。
 ただ、こういう人は「鼻持ちならない」と思う人もいるように思う。あまりにもエリート臭がきついので、「おまえなんかに言われたくないよ」という反応を示す人がいても不思議ではない。でも、「一生懸命頑張ります」しか言えないカイフ元首相よりかは百倍も千倍もマシだと思うのだが。


 フランスでは、4月になると、本格的に春が来た、という感じがする。3月に天気が劇的に変化し、いつから春が来たとハッキリ指摘できるぐらい、メリハリのきいた変化が起きる。空の色も地面の色も、ガラリと変化するのだ。そして4月は完全に春モードで、時間も夏時間だし日照時間はすでに日本の夏とおなじぐらいある。ほんとに彩り豊かなのだけど、この変化を満喫するためにも、11月からの長く暗い冬を体験しておかねば。
 1995年、大学院の授業も4月は終盤という感じで、DEAの履修者ともなれば、ぼちぼちmemoireの目処を立てておかねばならぬころ。しかし当方、原稿書きの仕事が忙しくなり、しかも子持ちとなってバンバン稼がなければならない状況になってきたので、あまりのんびりと学校に通っているわけにもいかない。それだけでなく、だいたい自分の進むべき方向が見え、あとはそこに驀進あるのみという感じがしてきたのも事実だ。
 フランスの大学院の授業料がバカ安くてよかった(笑)。なにしろ年額で1000フラン、2万円程度である。これがアメリカの私立大学だったりしたら、元を取るために意地でも居残り続けただろうが。


2006年03月08日

 1月の阪神淡路大震災に続き、3月の地下鉄サリン事件もフランスの全新聞が一面トップで報道した。しかし、衝撃の大きさは大震災以上である。自然条件に左右される地震に対し、サリン事件のような出来事は、パリでも十分に起こりうるからだ。この事件は多くのテロリストに一つのヒントを与えたであろう点で、フランス政府にとって他人事ではないのである。実際にこの事件後、メトロの駅は一時的に警戒が厳しくなったような気がする。
 それにしても、阪神淡路大震災からそれほど時間が経過していないのに、「10年に一度」クラスの大事件が起きてしまうのだから、この年は日本にとって本当に厄年なのかもしれない。

  * *

 地下鉄サリン事件の際にも「水と安全はタダ」といった話しが出ていたが、きちんと水道代を払っているわけだから、なんで水までタダという発想になるのか不思議だ。たぶん、井戸水を使っていた時代の名残なのだろうけど。その点、パリでアパートを借りていると、上下水道代は最初から家賃に含まれているので、いちいち水道代を払うことがない。こちらのほうがよほど「水はタダ」という感覚になりそうなものだけど、ミネラル・ウォーターを買う習慣があるので、そうはならないのだろう。でも、フランスの水は硬水なのでまずいといわれるけど、東京の水よりもよほどおいしいと思う。冷やして飲めばそれほど抵抗はないし。


2006年03月07日

 1995年2月初旬に子どもが生まれた。カミさんの陣痛が始まったのは、ちょうど徹夜で原稿を一本書き上げ、あと一本仕上げれば今月の原稿執筆は終わり、というタイミングだった。朝の6時ぐらいだったと思う。それからタクシーを拾って病院に行ったのだけど、こちらも原稿を仕上げねばならないため、ノートと筆記用具を持ち込み、時間の合間をみつけてはメモを作ったりしていた。これがカミさんには顰蹙を買ってしまったようである。でも、お父ちゃんも稼がないといけないのだ。
 病院はパリ16区にあり、うちからだとトロカデロ広場の横を通る方向となる。主治医はデュイエブ先生といって、奥さんが日本人なので日本語には堪能だ。パリで出産する日本人の多くはお世話になっているのでは。
 フランスの出産では、基本的に主治医が最初から最後まで面倒を見ることになるが、臨月が近づくとお産婆さんがアドバイスも含めたサポートについてくれる。また、無痛分娩が一般的なので、出産時には主治医とお産婆さん、麻酔医の三人がひとつのチームを組む。病院にはあらかじめ予約を入れておく。産気づいたとき、カミさんはお産婆さんに連絡を入れたのだが、なんでも別の出産がようやく終わり、いましがた帰ったばかりだったそうだ。このお産婆さん、70歳近い大ベテランなのだけど、二日続けて徹夜に近い作業になるのだから、相当な重労働だろう。
 誕生の直後から、いろいろな手続きを期間内に済ませなければいけない。これは男親の仕事である。我らの場合、子どもの名前はずいぶんまえから決めていたので、手続きは書類を記入して届けるだけだが、何カ所にも行かなければならない。
 まずは病院で出生証明書をもらう。そして次の日、証明書を持って16区の区役所に行って届け出をおこない、公的な出生証明書と戸籍抄本に相当する書類を発行してもらう。この二つの書類を持ってこんどは日本大使館に行き、戸籍への登録とパスポートの申し込みを行うわけである。


 早くも流行語大賞確実な情勢の「イナバウアー」であるが、今週発売の週刊誌には、やはりというか、次々とイナバウアーが使われていますね。今日発売の「サンデー毎日」では、「思わずのけぞるイナバウアーな人々」だし、誌名は忘れたけど、「逆イナバウアー」という見出しもあった。これは民主党の平身低頭を揶揄したもので、要するに前屈なわけですね。
 この調子だと、やはりAV化は時間の問題であると確信しないわけにいきません(笑)。さらに、随所で「イナバウアー・プレイ」も登場するに違いない。
 いまが12月だったら、あちこちの忘年会場で「いなばうあ〜」とかってのけぞって女の子のスカートを覗こうとするオヤジが続出したであろうに。いまから8ヶ月後では、ちょっと旬を逃してしまいますね。そういうアホな光景を見られないと思うと、残念で仕方がない(笑)。


2006年03月05日

 1999年9月、完全帰国から二ヶ月が経過したとはいっても、夏の暑い時期は生活リズムを日本モードにあわせることに注力したため、仕事環境などはまだ整理中の状態が続いていた。フランス滞在中、現地の日本人向け週刊新聞「フランス・ニュース・ダイジェスト」でコラムの連載をおこなっていた。内容的に、フランスに住んでいないとネタが切れてしまう。帰国後も何本か原稿を書いてはいたが、最初から連載は一年だけという約束で引き受けたので、この月がラストとなった。
 
 この週刊新聞にはけっこう助けられた。フランスの日本人向け個人情報が最も潤沢に掲載されていたからだ。帰国売りとかバカンス貸しアパートなどを、この新聞から見つけた人は多いはずである。その他にもOVNIとかParis jeudiなどの週刊新聞にやはり個人情報は掲載されているが、この時点で最も豊富だったのはフランス・ニュース・ダイジェストであった。
 
 これの裏面の「Who' who」コーナーには毎回在仏経験の長い人が写真入りで紹介されている。20年以上も住み続けている芸術家や武道家などが紹介されていたのだが、だんだんとネタが尽きたのか、普通の企業駐在員とかも登場するよになった。98年6月には、オレのところにも依頼が来たくらいなので、ネタ切れを確信したものである(実際、掲載対象者さがしはけっこうたいへんだったらしい)。


 1994年も年末に入ったころ、ようやくインターネットが身近な存在になってきた感じである。もちろんまだ世の中のパソコンはMS-DOSが主役だった。Windows 3.1はすでに登場していたと思うが、それほど決定的な存在ではなかったはず。すくなくとも日本では。なので、パソコンの多くはインターネットには対応できない。以前としてこれはUnixワークステーションの世界だったのだ。その点、この時点ですでにMacには最初からEthernetのポートが付いていたし、TCP/IP環境もDOS/V系よりはマシだったと記憶している。
 ただ、情報収集という点では、CompuServeの方が効果的という印象が強かったので、あえてインターネットを利用するメリットはそれほどないと思っていた。もちろん研究機関ですでにftpやnewsgroupをばんばん使っていた人は別意見だったろうが、すくなくともビジネス用途では、依然、パソコン通信のサービスが優勢だったのだ。
 このころがもしかするとパソコン通信の最盛期だったかもしれない。一年前だったと思うが、単行本の原稿を書くために、日本やフランスの「草の根BBS」を調べ、そのうちのいくつかには接続したことがある。草の根BBSとは、いまのインターネット環境でいえば個人が管理するサーバのようなものだ。ただし、当時はブロードバンドの常時接続といったものはなく、草の根BBSのホスト・コンピュータというのは、普通のパソコンに普通のモデムをつなぎ、それを電話回線につないだだけのものだったのである。利用者が接続するときは、その回線に電話をかけるのである。そうすると、先方のモデムが反応してホスト側のパソコンにつながる、というわけである。
 当然ながら、遠いところに置かれた草の根BBSに接続するためには、そこまで長距離電話をかけなければいけない。また、外国の草の根BBSにつなぐには、国際電話をかける必要があるわけだ。接続時間中は、通常の通話とおなじだけの電話代が発生する。当然ながら接続するのは市内料金の範囲だけ、となってしまがちで、だからこそ「草の根」なのである。
 アスキーがまとめたリストによれば、ピーク時には日本だけで2000ぐらいの草の根BBSがあったはずである。大きいものだと会員数が2000人以上、小さいものだと数人、というものもあった。活動内容は、最近のblogに近いものがあったように思う。
 フランスにもいくつかの「草の根BBS」があり、二つほど試しに接続したことがあった。名前は失念したが、ゲストとしてアクセスしただけでは、掲載メッセージの一部を読めるだけだった。すべてを読むためには、ホストに連絡してアカウントを作ってもらう必要があったのだが、さすがにそこまではやらなかった。
草の根BBS間でメッセージを交換するために、FIDO-Netという仕組みがあったやに記憶している。しかし、その仕組みが広がるよりも早く、インターネットのWWWが普及してしまったわけだ。


2006年03月04日

 たしか94年11月だったと思うが、「フェルマーの最終定理が証明された」というニュースを耳にした。過去にも何度か「証明されたらしい」という類のニュースは流れていたのだが、今回ばかりは主要メディアがこぞって伝えていたこともあって、ああ、本当なのだと思った。
 正直、自分が生きているあいだにこの定理が証明されるとは思っていなかった。なにしろ300年近くも未解決だったのである。大数学者ガウスは「解けない」と断言していたし、それに、現代数学的な意味からいえば、この定理自体を証明することは、それほど重要ではなかったのだ。その証明のためにどういう理論展開が果たせるのか、どういう地平が開けるのかが重要なのであり、その意味ではフェルマーの最終定理はすでに多くの貢献を果たしていたのである。
 ワイルズという数学者が証明を果たしたわけだが、日本のマスコミ報道では、数学者の加藤和也先生が随所でコメントを述べられていた。この加藤先生、わたしが学部3年のときに留学先から戻ってこられた。その翌年には講師に昇格し、ゼミ生を受け持つようになった。わたしの期が加藤ゼミの第一期生ということで、実際、兵頭(故人)という教養時代の同級生が加藤ゼミに入っていた。わたしも加藤先生にはあこがれを抱いていたのでゼミには興味はあったのだが、残念ながらわたしのレベルではついていけそうにないと断念したのである。
「あこがれを抱いていた」とはいっても、加藤先生の授業を我らの期は受けたことがない。ただ、当時の数学教室の重鎮、岩堀長慶先生をして「谷山豊以来の天才」といわしめたことで、多くの学生は「加藤」という名を記憶したと思う。谷山豊とはもちろん、フェルマーの最終定理を解くための鍵であった「谷山・志村・ヴェイユ予想」の谷山である。さらに、我らの期の大天才、古田幹雄を岩堀先生が評した言葉が、「加藤和也以来の天才」であった。また、整数論を教えていた伊原康隆先生もまた、「加藤くんの研究がうまく展開すれば、フェルマーの最終定理が証明されるかもしれない」といった話をされたことがあった。そんなことがあったので、授業は受けていなくても多くの学生が「加藤和也」という名前を覚えたわけだ。
 じつはわたしは加藤先生の「講義」を二度ほど聴いたことがある。恥ずかしながら、わたしは二年後期の数学科必修科目をすべて落としてしまい、三年後期のときに再履修した。そのとき代数系の科目の助手として演習を担当していたのが助手時代の加藤先生だったのである。ときおり演習問題の解説をしてくれたのだが、加藤先生の語りは名調子といってよかった。いちばん驚いたのは、しゃべる速さと黒板に書く速さとがほとんどおなじこと、つまり、それだけ書くのが速かったということだ。だけど、字はいたって綺麗だったのである。後に兵頭が加藤先生の印象を「あの先生は頭から数学が湧いてくる」と語っていたものである。
 なお、94年時点のワイルズの証明には不備が発見され、最終的に定理が証明されたのは95年のことだったと記憶している。


2006年03月01日

 1992年にパリから定期的にNIFTY-Serveを使っていた当時、パリでオフをする機会は日本から誰かがやってくるときだけだった。それでもずいぶんと来客はあったと思うが、それからたった二年後には、在欧メンバーだけで10人以上のオフができるようになったのだ。もともとヨーロッパに住む人の数は大して増加していないわけだから、日本国外で日本のパソコン通信を利用する人が一気に増えたということだ。
記念すべきオフは、せっかくだからパリではなく田舎でやろうということになり、外国語フォーラム常連お気に入りのBeauneという街でおこなうことになった。Beauneとは、ブルゴーニュ地方の小さな街だが、ワイン畑が集まる通称「黄金の丘」の中核である。非常に豊かな街なので、住民たちはいたって温厚、旅行者には優しい街だ。
 オフの開催は10月30日、紅葉のピークは過ぎてしまったが、まだ十分に鑑賞に耐える美しさは残っていた。わたしは在パリのT岡さん運転の車に便乗させてもらったので、パリからブルゴーニュにかけての高速道路沿いの紅葉を楽しむことができた。
 参加者は総勢11人。そのうちわたしを含む3人がパリ在住、1人がリヨン在住、2人が長期研修でパリに滞在中のご夫婦、残る5人はイギリス在住の方がフランスのブルゴーニュにまで遠征してきたのだった。このオフの幹事役を仕切ってくれたのは、イギリス在住のN野さんだった。じつはこの人、1989年の時点でジュネーブからNIFTY-Serveへのアクセスを行ったことがあるという、パソコン通信の世界では先駆者の一人である。ジュネーブでの駐在を終えてから日本に戻り、そしてこの年にこんどはロンドンの研究所に赴任することになったのである。しかし、もともとはフランスに留学経験のある人で、根っからのフランスびいき。在欧メンバー大集合の計画が出たときには、率先してフランスでの開催をリードしてくれたのだ。



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