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この日記について

この日記は、他のリソースから転載したものが大半です。
2005年3月以降の日記は、mixiに掲載した日記を転載した内容が中心です。一部は実験的に作成したblogに書いた内容を移植させています。
2001年の内容の一部は、勤務先のweb日記に記載したものです。
1996年〜2000年の内容の多くは、旧サイトに掲載したphoto日記を転載したものです。
1992年6月〜99年9月の日記の大部分は、パソコン通信NIFTY-Serveの「外国語フォーラム・フランス語会議室」に書き散らしていたものを再編集したものです。ただし、タイトルは若干変更したものがありますし、オリジナルの文面から個人名を削除するなど、webサイトへの収録にあたって最低限の編集を加えてあります。当時の電子会議室では、備忘録的に書いた事柄もあれば、質問に対する回答もあります。「問いかけ」のような語りになっている部分は、その時点での電子会議室利用者向けの「会話」であるとお考えください。

2006年03月04日

 たしか94年11月だったと思うが、「フェルマーの最終定理が証明された」というニュースを耳にした。過去にも何度か「証明されたらしい」という類のニュースは流れていたのだが、今回ばかりは主要メディアがこぞって伝えていたこともあって、ああ、本当なのだと思った。
 正直、自分が生きているあいだにこの定理が証明されるとは思っていなかった。なにしろ300年近くも未解決だったのである。大数学者ガウスは「解けない」と断言していたし、それに、現代数学的な意味からいえば、この定理自体を証明することは、それほど重要ではなかったのだ。その証明のためにどういう理論展開が果たせるのか、どういう地平が開けるのかが重要なのであり、その意味ではフェルマーの最終定理はすでに多くの貢献を果たしていたのである。
 ワイルズという数学者が証明を果たしたわけだが、日本のマスコミ報道では、数学者の加藤和也先生が随所でコメントを述べられていた。この加藤先生、わたしが学部3年のときに留学先から戻ってこられた。その翌年には講師に昇格し、ゼミ生を受け持つようになった。わたしの期が加藤ゼミの第一期生ということで、実際、兵頭(故人)という教養時代の同級生が加藤ゼミに入っていた。わたしも加藤先生にはあこがれを抱いていたのでゼミには興味はあったのだが、残念ながらわたしのレベルではついていけそうにないと断念したのである。
「あこがれを抱いていた」とはいっても、加藤先生の授業を我らの期は受けたことがない。ただ、当時の数学教室の重鎮、岩堀長慶先生をして「谷山豊以来の天才」といわしめたことで、多くの学生は「加藤」という名を記憶したと思う。谷山豊とはもちろん、フェルマーの最終定理を解くための鍵であった「谷山・志村・ヴェイユ予想」の谷山である。さらに、我らの期の大天才、古田幹雄を岩堀先生が評した言葉が、「加藤和也以来の天才」であった。また、整数論を教えていた伊原康隆先生もまた、「加藤くんの研究がうまく展開すれば、フェルマーの最終定理が証明されるかもしれない」といった話をされたことがあった。そんなことがあったので、授業は受けていなくても多くの学生が「加藤和也」という名前を覚えたわけだ。
 じつはわたしは加藤先生の「講義」を二度ほど聴いたことがある。恥ずかしながら、わたしは二年後期の数学科必修科目をすべて落としてしまい、三年後期のときに再履修した。そのとき代数系の科目の助手として演習を担当していたのが助手時代の加藤先生だったのである。ときおり演習問題の解説をしてくれたのだが、加藤先生の語りは名調子といってよかった。いちばん驚いたのは、しゃべる速さと黒板に書く速さとがほとんどおなじこと、つまり、それだけ書くのが速かったということだ。だけど、字はいたって綺麗だったのである。後に兵頭が加藤先生の印象を「あの先生は頭から数学が湧いてくる」と語っていたものである。
 なお、94年時点のワイルズの証明には不備が発見され、最終的に定理が証明されたのは95年のことだったと記憶している。


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